日本一謎の多い城?阿波を支えた「阿波九城」を紹介
徳島県鳴門市にある「撫養(むや)城」はご存知でしょうか。
非常にマイナーな城であり、注目されることのない城ですが、実は戦国時代後半から江戸時代にかけての阿波(現在の徳島)では重要な役目を担っていました。
一方でほとんどの記録が残っていない謎に包まれた城でもあります。
詳しく見ていきましょう。
撫養城とは
撫養城は城が建設された目的やどんな役割を担っていたのかも判明しておらず、さらには城主についても不明と、謎が多く残る城です。
ただ、天正10年(1582年)に長宗我部元親が阿波国への侵攻を開始。その際、長宗我部元親の配下である「真下飛騨守」が撫養城を支配したとされています。
その3年後である天正13年(1585年)には、豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部元親が討たれ、蜂須賀家政が阿波国を支配しました。
阿波九城
阿波国の領主となった蜂須賀氏は、もともと阿波国内にあった既存の9つの中世城郭を改修し、「阿波九城」と称しています。
この阿波九城のひとつとして、阿波を支えたのが「撫養城」です。
寛政12年(1615年)の一国一城令で全国各地の城が廃城され、寛政15年(1638年)に撫養城も廃城の命が下ります。
そんな撫養城は、現在本丸跡に三層天守閣様式として新しく建て替えられました。
建て替え後は地元の防災拠点としての機能をもつほか、施設内にある市民ギャラリーや会議室が利用可能で、姿を変えた現在も阿波の人々を見守ってくれています。