武豊、幸四郎兄弟、そして蛯名正義が、去り行く名将・藤沢和雄との逸話を語る
蛯名が語る「伯楽は何故最終追い切りに乗せなかったのか?」
「調教師試験を受けようと決めた時、藤沢先生から『うちで勉強すれば良い』と声をかけていただきました」
こう語るのは蛯名正義調教師。間もなくに迫ったこの3月1日に開業を予定している元名騎手は、開業前の研修期間を藤沢和雄厩舎で過ごした。
「一発合格とならなかった分、図らずも先生の下にいる時間が長くなり、沢山学ばせていただきました」
そんな中、気付いた事があった。
「先生は見ていないようなふりをして、実は毎日、馬をちゃんと見ています。飽きるとか『今日はいいかな……』とかなるのが人間だと思うけど、それが全くありません。そういう事の積み重ねが大切なのだと教えてもらいました」
蛯名は藤沢と縁があった。騎手時代の彼は数々の大仕事をしたが、初めてのGⅠ制覇は1996年の天皇賞(秋)。タッグを組んだバブルガムフェローは後の1500勝トレーナーが管理する馬だった。
「あの時、藤沢先生は現場にいなかったのですが、私にプレッシャーをかけないように様々な配慮をしてくださいました」
同じ週、カナダで行われたブリーダーズCに藤沢はタイキブリザードを送り込んでいた。そのため、太平洋を越え、東京競馬場にはいなかったのだ。
また、バブルガムフェローの主戦を務めていた岡部幸雄騎手(当時、引退)も同様にカナダへ飛んだ。そこで蛯名に白羽の矢が立った。
「当時はまだGⅠを勝った事がありませんでした。そんな自分にGⅠで有力馬を任せていただいた。ガチガチになっておかしくないところですけど、藤沢先生は『受けて立つ競馬をしてくれて良い』とか『追い切りは厩舎に任せて大丈夫だから乗らないで良い』と言ってくださいました」
この年の1番人気は天皇賞(春)の勝ち馬で直後には有馬記念も制すサクラローレル。2番人気が4つの重賞を含む6連勝中のマーベラスサンデー。更に菊花賞、有馬記念、宝塚記念とGⅠを3つ勝利していたマヤノトップガンもいた。これらを相手に当時3歳のバブルガムフェローで「受けて立つ競馬をして良い」と藤沢。小細工をしないで良いと思うだけで、蛯名の心はだいぶ軽くなった事だろう。
また、追い切りに乗り「良い馬だ」と分かれば、その後のレースまでの数日間で「負けられない」という気持ちが日に日に大きくなり緊張感が高まったはずだ。あえて調教に乗せなかったのは、若い蛯名にそんな思いをさせないためだったかと推察出来た。
結果は皆さんご存知の通り。蛯名にいざなわれバブルガムフェローは優勝。天皇賞(秋)が3歳馬に再開放されてから、初めてとなる3歳馬での勝利という偉業を達成した。
「馬だけでなく人の事もよく見ている。そんな藤沢先生だからこそ、自分も勝たせてもらえたのだと思います」
武幸四郎が語るレイデオロのダービー直前のエピソード
蛯名同様、開業前の研修期間の長くを藤沢の下で過ごしたのが武幸四郎調教師だ。
栗東所属でありながら、美浦と北海道で、藤沢厩舎で学んだ。当時、感じた事があったと次のように語っていた。
「とにかく馬を良く触っていました。だからちょっとした違いにも気付くのだと思いました」
レイデオロが日本ダービーに臨んだ際には、武幸四郎と共に東京競馬場に早目に入った。そして、大一番を直前にした競馬場での調教で、その鞍上を任された。
「自分が開業した後、果たして同じ事が出来るか?と考えたら難しいと思います。まだ調教師としては何も経験のない人間を、ダービーの直前の調教に乗せる。色々な意味で考えさせられたし、藤沢先生の凄さを感じました」
もっとも藤沢に言わせると「何も度胸が要った事ではない」となる。
「幸四郎は騎手出身ですからね。信頼して任せたまで、です」
結果、レイデオロはダービー馬となり、藤沢がダービートレーナーとなるわけだが、その前の週にはソウルスターリングがオークスを制覇。藤沢は牡牝共、世代の頂点を極めた。これに対し、武幸四郎は当時、周囲から言われた事があった。
「『良い時期に研修に来たね』と多くの人に言われました」
しかし、言われた本人は違和感を覚えたと続ける。
「レースに勝ったとか、負けたとか、そういう事ではなく、そこへ臨むまでの姿勢を教えてもらいました。毎日、これでもかというほど馬に触り、ちょっとした変化にも気付くようにする。勝ったとか負けたとか関係なく、そういう態度を貫き通す姿勢は常に同じだと思います」
武豊が語る名将が「質問してくる時」とは……
そして武幸四郎の兄、武豊もまた日本一の調教師と数多くの縁があった。藤沢は言う。
「敵に回してやられてしまう事の方が多かったけど、乗ってもらう時は騎乗ぶりだけでなく、その馬に対するジャッジまで含め、頼りになりました」
その一例として、シンボリクリスエスをあげる。2002年の秋、3歳にして天皇賞(秋)と有馬記念を制したこの馬が、最初に頭角を現したのはその春の青葉賞だった。そこまで5戦して2勝。直前に500万条件を勝利して、勇躍挑んだ青葉賞で、伯楽は鞍上に武豊を指名。結果、これを見事に勝利して、ダービーへの出走権を掌中に収めた。再び藤沢の弁。
「素晴らしい勝ち方だったし、これならダービーも勝てるかもしれないと、喜んでいたら武君に『秋になれば強くなりますよ』と言われました」
内心「何を言っているんだ?!こんなに強かったじゃないか!!」と思ったと言う藤沢だが、武豊の経験から育まれたであろう千里眼の確かさは時間が証明した。先述した通り秋には古馬相手に天皇賞と有馬記念を勝つシンボリクリスエスだが、青葉賞直後のダービーでは2着。武豊の乗るタニノギムレットに1馬身遅れをとってのゴールとなった。
「岡部(幸雄)ジョッキーやオリビエ(ペリエ)にケント(デザーモ)、そして今ならクリストフ(ルメール)もそうだけど、武君も同様。トップジョッキーのジャッジは本当に頼りになるし、大事なアドバイスになりましたよ」
これは武豊が語る藤沢の印象とも合致する。天才騎手は言う。
「藤沢先生は調教にしてもレースにしても、乗る前よりも後の方が色々と話をしてきます。騎手の意見を尊重しているのが良く分かりました」
そして、質問に対しては緊張感を持って答えたと言う。
「他の人がどうという事ではないですけど、藤沢先生はすごく細かいところまで聞いてくるし、こちらも慎重に考えながら責任を持って答えなくてはいけないと思ったものです」
互いのそのような姿勢が相乗効果となり、次走に、ひいてはその馬の将来に活かされたであろう事は想像に難くない。
ナンバー1ジョッキーは最後に感慨深げに言った。
「ダンスインザムードに乗るため美浦へ行ったのも懐かしいし、ゼンノロブロイのイギリス遠征も良い思い出です。70歳定年というのはJRAの規定なので仕方ないといえ、藤沢先生はまだまだ元気なだけにもったいなく思えてしまいますね」
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)