女性を装った作品が大バズリ!祖父の失脚で出世街道が閉ざされ歌人に転身した紀貫之とは
紀貫之は、平安時代を代表する歌人です。
彼の代表作である「土佐日記」や「古今和歌集」は、現代の国語や社会の授業でも取り上げられているので名前を覚えている方も多いのではないでしょうか。
今回は、出世街道を閉ざされてしまったにもかかわらず、現代にも名を馳せる歌人となった紀貫之について紹介します。
出世できない紀貫之
紀貫之は歌人として取り上げられることの多い人物ですが、もとは朝廷に仕える役人でした。
紀貫之が生まれた「紀氏」は、政界で名を轟かせる由緒ある名門であり、歴代・紀氏には平安京遷都に尽力した人物もいるほどです。
しかし、紀貫之の祖父が藤原氏との皇位継承権争いに敗れてしまい、紀氏は失墜。
その後、祖父の代で紀貫之の出世街道は完全に閉ざされてしまったのです。
才能を開花させた紀貫之
出世できないことを悟った紀貫之は、役人の仕事をこなしながら、平安時代で一定の地位を与えられる「歌人」として御家再興を図ります。
地頭がよかった紀貫之は、和歌のほかに漢詩の教養も身につけるなど、歌人としての実力をメキメキと発揮させました。
そしてその後、歌人としての実力を醍醐天皇に認められ、日本初の勅撰和歌集「古今和歌集」の偏者(簡単にいうと編集のこと)に抜擢されたのです。
土佐日記
歌人として活躍した紀貫之ですが、藤原氏の圧力もあり役人としてはうまくいかず、ついには地元の京都から現在の高知県である土佐へ飛ばされてしまいます。
しかし、なにも悪いことばかりではありませんでした。
紀貫之は、土佐から帰京する道中で自身の代表作となる「土佐日記」を完成させています。
この作品は、紀貫之が女性を装って平仮名で書いた日記です。
本文に「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」との記載があるように、男性がしている日記を女性の私がってみたという異色の作品でした。
紀貫之がなぜ女性を主人公にした作品を書いたのかについては解明されておらず、現代でもさまざまな考察がされています。
どちらにせよ、この作品の影響で、当時は珍しかった女性歌人が受け入れられるようになり、後に清少納言や紫式部といった才能ある女流歌人を誕生させた原点ともいわれているのです。
潮明寺
土佐日記の本文には、現在の徳島県・阿波にある「土佐泊」に立ち寄ったことが記載されているようです。
徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦にある潮明寺には、このことを記念した「紀貫之の遺跡」が設置されています。
紀貫之がどのような思いで土佐日記を書き残したのか、「紀貫之の遺跡」から感じてみてください。