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沖縄復帰50年 昭和天皇の悔恨、上皇陛下の覚悟、そして令和の天皇に引き継がれた願い

つげのり子放送作家、ノンフィクション作家(テーマ:皇室)
沖縄復帰50周年記念式典でお言葉を述べられた天皇陛下(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

◆昭和天皇の悔恨

「思はざる病となりぬ 沖縄をたづねて 果さむつとめありしを」

 これは1987年、沖縄へのご訪問を予定していた昭和天皇が、病により体調を崩され、中止となった際に詠まれた御製である。

 先の大戦で激しい地上戦が展開し、多くの民間人が犠牲となった沖縄は、昭和天皇の心に悔恨の印として重く刻まれていたのだろう。

 戦後間もない1947年9月、沖縄のアメリカによる軍事占領について、昭和天皇はこれを受け入れる旨の意志を伝えたと言われている。

 いわゆる「天皇メッセージ」というものだが、これが様々な論争の的となった。

 「昭和天皇は沖縄を見捨てた」といった見方や、冷戦不可避な当時の安保事情を鑑み、「地政学上、受け入れはやむを得なかった」とする説、また「アメリカの占領を租借という形で、潜在的主権維持を狙った」と評価する意見もある。

 当時の昭和天皇の真意は知る由もないが、筆者は、決して沖縄を見捨てたわけではなかったと考える。いや、見捨てるもなにも、そのような権限を当時の陛下は、持ち合わせていなかったのである。

 実は昭和天皇は、戦前、沖縄の地を訪れている。

 それは大正10年3月6日、まだ皇太子だった当時、御召艦「香取」にてヨーロッパご訪問の途次、沖縄に立ち寄られたときのことだった。その経験はとても楽しいものだったらしく、トビウオが甲板に飛び込んできた様子を、御製に詠まれている。

「わが船にとびあがりこし飛魚を さきはひとしき 海を航(ゆ)きつつ」

 昭和天皇実録によれば、御召艦「香取」は、同日午前、沖縄本島南部の与那原に到着。現地の人びとの歓迎を受けつつ、列車にて那覇へ移動し、御昼餐の後、旧首里城や師範学校などをご訪問。中学生の唐手(空手)模範試合を見学されるなど、短時間ながら沖縄の伝統文化に触れている。

 昭和天皇にとって、皇太子時代のたった一度の沖縄との邂逅であった。

 しかし、その後、昭和天皇に待っていたのは、関東大震災、大正天皇の崩御、青年将校らの反乱、そして日中戦争の勃発から太平洋戦争へと、心を休める時間が巡りくることはなかった。飛魚の御製にこめられているのは、短かくも穏やかな日々の、良き思い出としての沖縄であった。

 終戦後、日本はアメリカの統治下に置かれたが、1951年9月、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約の調印をもって、そのくびきから解放されたものの、沖縄だけは果たされなかった。

 終戦から1972年の本土復帰までの27年間、沖縄はアメリカ軍の施政下に置かれ、その間、日本の全面積の0・6%にすぎない沖縄県内に、米軍専用施設の約70%が集中するほど、その負担は大きくなっていったのである。

 これは昭和天皇にとっても、予期せぬことだったのではないだろうか。

 沖縄に寄せる昭和天皇の無念の思いは深く、いつの日か沖縄の地を再び訪ねて、慰霊の思いを捧げたいと切に願い、冒頭の御製へと繋がっていったのだ。

◆上皇陛下の覚悟

 昭和天皇が沖縄に寄せられた思いは、次世代の現上皇陛下に受け継がれた。

 上皇陛下が皇太子だった1975年7月、本土復帰の3年後、美智子さまとともに初めて沖縄をご訪問。この時、「ひめゆりの塔」に潜んでいた過激派から火炎瓶を投げつけられるという事件が発生した。

 しかし、上皇さまは平然と何事もなかったかのように、次の予定地へ足を運ばれた。そして急遽、その日の夜、以下のような談話を発表されたのである。

「払われた多くの尊い犠牲は一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人々々、深い内省のうちにあってこの地に心を寄せ続けていくことを置いて考えられません」

 皇室に対し、複雑な思いを抱く沖縄県民の中には、このご訪問を快く思わない人びともおり、上皇さまも不穏な空気を感じられてか、「石を投げられても行く」と腹を括ってのご訪問であった。

 その胸中には、辛く困難な戦後をたどった沖縄県民に、どうすれば寄り添って心を通わせることができるのか、答えを模索する一心が秘められていた。

 以来、天皇になり退位するまでの間、上皇さまは11回も沖縄を訪問し、沖縄の歴史や文化への造詣を深められた。

 沖縄伝統の琉歌に心を寄せ、「歌声の響」と題された歌を作詞し、それに美智子さまが曲をつけられてもいる。

「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る

 だんじよかれよしの歌や 湧上がたん ゆうな咲きゆる島肝に残て」

 沖縄戦が多大な犠牲を払って終結を見たのは、1945年6月23日。上皇さまは、この日を「広島」と「長崎」の原爆忌、「終戦記念日」とともに、「忘れてはならない日」として、毎年静かに黙祷し、平和を祈られてきた。

◆令和の天皇に引き継がれた願い

 昭和天皇から上皇陛下へ。そして今上陛下にも、沖縄に寄せる皇室の一貫した思いは受け継がれ、今年2月23日のお誕生日に際しての記者会見では、次のように語られた。

「私は、幼少の頃より、沖縄に深い思いを寄せておられる上皇上皇后両陛下より、沖縄についていろいろなことを伺ってまいりました。(中略)本土復帰から50年の節目となる今年、私自身も、今まで沖縄がたどってきた道のりを今一度見つめ直し、沖縄の地と沖縄の皆さんに心を寄せていきたいと思います」

 そして、今月15日、オンラインにて出席された「沖縄復帰50周年記念式典」では、未だ負担が軽減できない沖縄の現状を率直に認め、沖縄へのまなざしの深さを述べられた。

「沖縄には、今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」

 戦後、昭和天皇から今上陛下に至る三代にわたって、沖縄に心を寄せられてきた天皇陛下。

 その一貫した考えの根底には、今も戦争の記憶を残す沖縄の憂いを取り去り、本当の恒久平和を手にする日への願いがこめられているのだ。

放送作家、ノンフィクション作家(テーマ:皇室)

2001年の愛子内親王ご誕生以来、皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。西武文理大学非常勤講師。日本放送作家協会、日本脚本家連盟、日本メディア学会会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)などがある。

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