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【中津川市】9月15日は関ヶ原の戦いの日!苗木城奪還は、交渉の連続だった?遠山友政公の激動の日々

中津川&恵那ゆるゆるニュースライター&坂めぐり好き(中津川市・恵那市)

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9月15日は、関ケ原の戦いが起こった日(1600年10月21日)。

そこで今回は苗木藩初代、遠山友政公にスポットをあて、お伝えしたいと思います。

苗木藩、遠山家の貴重な資料が保存されている苗木遠山史料館
苗木藩、遠山家の貴重な資料が保存されている苗木遠山史料館

今回ご対応いただいたのは、苗木遠山史料館の浅井館長と、長年調査をしている千早保之先生。

関ヶ原前の友政公はどのように過ごしていたのでしょうか?

家康公、秀忠公の花押がある貴重な書状も見ることができます
家康公、秀忠公の花押がある貴重な書状も見ることができます

「友政公は当時、徳川家康の家臣、榊原康政のもとで群馬県の舘林で暮らしていました」

もともと苗木遠山家は織田方でしたが本能寺の変後、豊臣方の森長可と対立。1583年に苗木を追われ、徳川家康に身を寄せることに。

「家康は、菅沼定利、井伊直政、榊原康政といった家康の重臣たちの元に友政を付かせています。この重臣たちは家康の一番信頼している重臣たち苦節の時期を過ごした友政公でしたが、徳川家の中枢にいた重臣たちと過ごせたのはラッキーかもしれませんね」

そして豊臣秀吉が亡くなり、1600年になると事態は急変します。

いわゆる上杉征伐のため家康は大軍を引き連れ関東方面へ。その後、石田三成が家康討伐に挙兵。徳川家康はその知らせを進軍中の栃木県小山で聞くことに。行動をともにしていたほとんどの武将は徳川家康側、東軍として戦うことになります。

そして家康は小山で友政公を呼び寄せます。

「家康の上手かったところは、友政公のように、豊臣から追われた武将たちをうまく活用したところですね。友政公のような、豊臣側につかず、領地を離れていた明知の遠山利景、郡上の遠藤慶隆、木曽の山村甚兵衛(妻が友政公の妹)などに旧領安堵を認め、先鋒を指示していきます」

と、千早さん。

友政公の苗木奪還のスタートです。

その後の友政公の動きは目まぐるしく、凄まじいものでした。

1600年7月25日 石田三成、挙兵の報が徳川家康の耳に届く
その後家康は友政公に先鋒を指示、金子30枚、鉄砲30挺、玉薬1万発を与えられる
1600年8月初め 友政公、館林に戻り、榊原康政とお世話になった人々に旧領回復の命を受けた報告とお礼と挨拶をする
1600年8月初旬 友政公、舘林を出発
1600年8月12日 友政公、苗木奪還

この苗木奪還に関しては、徳川秀忠率いる、徳川本隊の先鋒としての役割もありました。

友政公は山口村から木曽川を渡り、瀬戸の庄屋や百姓の加勢を得て多数に見せかけ、当時城代だった関治兵衛に明け渡しを迫り、苗木を奪い返します。

資料によっては勇ましい話もあるようですが「今の研究では、徳川本隊先鋒としての役割もあったので、戦や放火などはなく、とにかく交渉の連続だったのではないか」とのこと。

関ケ原の合戦の1カ月前にはすでに苗木に戻ることができたのですね。

しかし、その後、感傷に浸る暇もなく友政公はなんと、江戸に向かいます。

なぜならば、美濃国、飛騨国は西軍側が多く、岐阜城の織田家も西軍側。もしくはまだどちらにつくかもわからない武将が多くいたから。友政公は東軍側の交渉役として奔走することになります。

1600年8月中旬 江戸に向かう
1600年8月後半 江戸で徳川家の重臣、大久保長安と対面。木曽の山村甚兵衛と千村平右衛門に援助するため米の仕入れと手紙を受け取る
1600年8月後半 松本で米を仕入れ
1600年8月後半 松本から木曽福島に移動、木曽の山村甚兵衛に米を届ける
1600年8月後半 苗木に戻る

車も新幹線もない時代、これだけの移動をしている友政公。

苗木~江戸間は164キロ。おそらく、少人数で馬を飛ばし江戸まで急いだのでしょう。

松本で米を仕入れ、木曽福島に向かった後、西軍側につき、飛騨の萩原城に籠城する三木次郎兵衛を説得するため、飛騨国、萩原に飛び、説得して開場させ、苗木に戻ります。

この時も刃を交えることなく交渉のみで開城させているので、友政公の働きはすさまじいものがありますね。

9月に入り徳川家康の大軍が東海道、徳川秀忠の本隊が中山道ルートで西に向かいます。

この間美濃に入る秀忠軍を待ち受ける友政公ですが、秀忠軍は大雨や信濃の上田城攻めで真田昌幸の策略にはまり、泥沼の足止めを食らい、関ケ原に間に合わないという事態に。

関ケ原は9月15日。秀忠軍は16日に妻籠着。

この妻籠で関ケ原の情報が入り、この時友政公は、疲労困憊であろう徳川秀忠に勝ち栗を贈呈しています。

上の書状が「勝栗進呈のお礼状」とも言われ、徳川秀忠の花押があります
上の書状が「勝栗進呈のお礼状」とも言われ、徳川秀忠の花押があります

その後もまだ東濃地区では関ケ原後の内戦が続きます。

土岐城での攻防戦があり嵐彦兵衛が9月25日に土岐城を退出、岩村城の田丸直昌は10月10日に城を去ります。

友政公は大坂にいた明知遠山家、遠山利景の代理として岩村城の明渡しに立ち合います。

こうして美濃国東部、飛騨国の戦がようやく終わり、江戸時代に突入し、苗木藩が誕生します。

石田三成の挙兵が届いた7月25日から岩村城の明け渡しが行われた10月まで、友政公は交渉、移動、交渉の連続で、気が休まることがなかったでしょう。

「友政公は、苦労の多い人生だったと思います」と千早さん。

人生の悲願であった苗木奪還。

おそらく人生で忘れられない数か月であったかと思います。

そんな友政公に想いを馳せ、苗木城跡に足を運んでみてください。

苗木遠山史料館

住所:岐阜県中津川市苗木2897-2

電話番号:0573-66-8181

営業時間:9:30~17:00

(入館は16:30まで)

定休日:月曜

公式サイト

苗木城跡

住所:岐阜県中津川市苗木

参考資料:苗木城 築城500年 中世・近世 苗木遠山の波瀾と日常

苗木城跡・苗木遠山史料館 友の会発行

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