バニラエア問題、声をあげた人へのバッシングはもうやめて。生きづらさを助長していませんか?
■ バニラ・エア航空問題を受け、国が対応
今、話題となっているバニラ・エア問題。バニラ・エア側の謝罪に続き、政府が問題を受けとめて、動き出しました。
一人の人が声をあげ、問題提起してくれたことが社会を変えるきっかけをつくりました。
障害者が生きずらいのは、障害者側に問題があるのではない、障害者を受け止める社会環境に問題があるのだ、だから合理的配慮を進めていく、というのが、日本が批准した障害者権利条約の大前提です。障害者権利条約5条は以下のように規定し、
としています。
政府は、この障害者権利条約を批准し、この条約をもとに、障害者差別解消法が制定・施行されたのは昨年です。
障害者差別解消法は、以下のように規定しています。
こうした条約や法律の精神に基づくなら、今回の政府の対応は、当然の措置。当たり前です。
差別解消法はできたものの、現実と法律の要求するものとの間にはまだまだギャップが大きいのが実情です。
特に、民間企業は独自のルールをつくって障害者の利用を狭め、事実上拒んでいるのが現状で、ひとつひとつ要望して変えさせていくことが必要になってきますし、そのためには国のさらなる積極的な役割が欠かせません。
■ 声をあげた人をバッシングする声
ところが、今回声をあげた障害者の男性に対するいわれなきバッシングが展開されました。
すでにこちらの記事が詳しいですが、
明らかにおかしな問題を正そうとした男性に対し、バッシングをする社会とはなんなのでしょうか。
問題提起を受けて、会社も謝罪し、政府も対応を取ろうとしている、しかし、社会の中に「お上にたてついた」個人を許せないとしてバッシングするような動きがあるというのは大変悲しいことであり、若い人たちがこれから「何かに声をあげていこう」という芽を摘むことをとても懸念します。
バッシングの根幹にあるのは、木島さんがバニラエアの定めたルールを守らなかったからだとされています。
バズフィードによれば、
つまり、障害者に対して差別的な航空会社のルール、合理的配慮を欠くルールとその運用が障害者の利用を妨げていたわけです。
そのようなルールに黙々と従っていても、負けること、排除されることは目に見えています。
だからこそ、「おかしい」と思った人が不当なルールに対し問題提起すること、抗議を身をもって示すことは明らかに正当です。
そうしたひとつひとつの行動が、おかしな規則に縛られた窮屈な社会を、より人々が生きやすい社会に前進させることにつながるのです。
今回、声をあげられた男性のような行動は、むしろ「チェンジ・メイカー」として称賛されるべき、そのことによって社会は進歩するのです。
特に、障害者に対する差別や不都合は、障害をもたない人にはなかなか見えにくい、「障害者の方々の立場に立って物事を考えよう」といくら思っても、実際には障害を持たない者には見えにくいことがあります。指摘していただいて初めて社会が気づく、そのことは大切にし、歓迎すべきことです。
そのことによってはじめて、私たちも「見えない」ものが「見える」ようになり、大切な視点をもらい、適切な配慮の在り方を社会で議論したり、それが政策に反映されることになります。
ところが、このようなバッシングがあると「ああ怖い」「やっぱり黙っておこうか」と障害者の方々も、そして社会全体も委縮していまうことが心配です。そうなると、社会の様々な不合理も解決・解消されないまま将来世代に積み残しとなってしまいます。実に残念です。バッシングは社会をよくする芽を摘み取っているのです。
■ ルール縛りの日本社会
こうしたバッシングの根底にあるものはなんだろう?と考えることがあります。
日本では、小さい時から校則などのルールが厳しく、小さい子が教えられることは「きまりをまもる」「迷惑をかけない」ということです。校則には不合理で過度に自由を制約するものも多く、それでもみんなは従うしかない、共同体のルール、学校のルールを守らない者は、「きまりをまもらない」「周囲に迷惑をかける」者として批判の対象となります。
そして、会社に入っても、共同体の中でも、独自のルールがあり、それに従わないと生きていくことが難しいとされています。
しかし、日本ではあまりにこうした「きまりをまもる」「迷惑をかけない」という価値観が染みつき、人々が同一的な行動をすることが期待されているため、それが逆に社会を窮屈なものにしています。
特に、障害者の方であったり、マイノリティとされる人たちにとっては生きずらい社会であることは間違いないでしょう。
様々な単位で制定されている「ルール」の内容自体は旧態依然としていて、障害者や少数者への配慮に欠けたり、自由を過度に制約するものだったりすることも少なくありません。
ところが、日本人の多くはルールに挑戦したり、ルールの合理性を問うよりも、ルールには従う、という傾向が強いのが現状で、ルールに挑戦する人は少数派です。
民主主義社会の重要な理念を表す「法の支配」(rule of law)という言葉がありますが、これは人々が唯々諾々とルールに従う「法による統治」(rule by law)(独裁国に典型と言われています)とは全く異なる概念で、法そのものはみんなが参加して決め、しかも合理的で人権に配慮したものであるべき、ということが前提になっています。
ところが、「決まりを守ろう」という日本のいわばルール至上主義とでもいえる状況は「法の支配」社会よりも、独裁国型の「法による統治」的な傾向が強いのではないかと懸念されます。
これは社会の発展を阻害する傾向であり、私はルール至上主義で、あまりに同質性の高い日本社会では、自由なイノベーションか起きにくくなると懸念します。
権利について声をあげる人というのは、多かれ少なかれ、既存秩序、既存のルールに挑戦し、風穴をあけようとする人たちです。
しかし、「きまりをまもる」ように躾けられた人々にとってはざわざわすることかもしれません。
不合理な決まりでもみんなで守り、自分を殺して耐えてるのに、「それはおかしい」と言い出す人間がいる、後出しジャンケンのようで許せない、それが認められたら、自分が耐えてきたことは何だったのか、ということになり、足を引っ張る行動に出る。
それが、昨今のバッシングに通底しているように思えます。きっとバッシングしている人たち自身生きづらさを抱えてきたのでしょう。
しかし、声をあげたらバッシングされる、不合理でもただ黙々とルールに従うしかないんだよ、ということで、未来に希望のある社会を若い人たちにバトンタッチできるのでしょうか。生きづらい社会を将来にも残したいですか?
■ ルールに挑戦し、世界を変えてきた人たちがいる。
歴史上の様々な差別や不合理は、怒りをあらわにし、行動をもって、その差別や不合理に挑戦した人たちの行動によって変わりました。
私たちが今当たり前のように享受している人権も、そうした人たちのこれまでの行動によって勝ち取られたものです。
人種差別と闘った英雄といえば、ネルソン・マンデラさん、キング牧師などが有名ですが、こうした人たちと並んで、あるいは先達として一人の女性がしばしば紹介されます。
ローザ・パークスさん。
と紹介されています。
当時は、アフリカ系アメリカ人と白人を分離する法律があり、アフリカ系アメリカ人は白人優先席に座ることは許されませんでした。彼女は、こうした決まりはおかしい、人種差別だと考え、白人優先席に座るという行動をとり、逮捕されたのです。
しかし、この事件がきっかけとなり、人種差別をなくす公民権運動が全米に広がり、公民権法が制定されました。
アフリカ系アメリカ人に対する差別が横行する社会にあって、彼女がただ、人種差別を実施する不当なルールに唯々諾々と従っていたら、公民権運動もなかったでしょうし、いまだに人種差別は続いていたかもしれません。
その後、アメリカには公民権法ができ、それまでの不当な、人種差別的ルールはすべて撤廃されました。
法律は変えることができる、おかしなルールは是正することができる、そのことによって社会は進歩します。
日本でも、差別的な法律が改正されたり、法律が裁判所で違憲・無効とされて変わってきた歴史があります。
それを可能とするのは、政治家たちだけではない、困っている人たち、不当だと思っている人たちが不合理に耐えることにとどまらず、声をあげる、そのことが社会を変えます。彼女のような人たちこそがチェンジメーカーなのです。
■ 声を上げた人を応援する社会に。
声を上げる人たちの足をひっぱるのでは、私たちの社会はこれからも、生きづらいままでしょう。あるマイノリティの方々にとって生きにくい社会というのは、他のマイノリティにとっても、そして多くの人にとって生きにくい社会のはずです。
声をあげた人たちを応援できる社会にしていきませんか。
そして、バッシングだけがとりあげられやすいですが、声を上げる人の行動を多くの人が励まされ、応援しています。是非、多くの人に「おかしい」と思ったことには勇気を出して声を上げる側になってほしいと願います。
おかしいとはおかしいと言える風通しのよい社会をつくりましょう。
(この文書は、特に、若い人に読んでほしいと思って書いたので、年配の方には当然のことを説明していると思われるかと思います。お断りいたします)。