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【ラグビーW杯】日本の夢を打ち砕いた南アフリカのラグビー事情 「虹色国歌」に込めた願いは実現したか

木村正人在英国際ジャーナリスト
国民和解のシンボルになった(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

「黒い真珠」と呼ばれた快速ウイング

[ロンドン発]ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会決勝トーナメント1回戦で日本と対戦した南アフリカ。強力なFW戦を展開し、粘る日本を3-26で突き放しました。日本の夢はこれからも続きますが、健闘ぶりがラグビーW杯に新しい歴史を刻みました。

チームを見ても応援団を見ても民族融和が進んだことが分かる南アですが、貧富の格差や貧困、犯罪など今でも大きな社会問題を抱えています。失業率は29%。殺人は過去10年間毎年上昇し、性的暴行も今年だけで4.6%も増加しました。

世界銀行によると南アの格差は世界最悪。悪名高きアパルトヘイト(人種隔離)政策が1991年に廃止され、故ネルソン・マンデラ氏が黒人初の大統領に就任したのは94年。翌年、南アで開催されたラグビーW杯で南ア代表チームの“黒人”選手は1人でした。

95年6月24日、南アの主要都市ヨハネスブルク。エリス・パーク競技場はラグビーW杯決勝戦の「スプリングボクス(南ア代表の愛称)」対「オールブラックス(ニュージーランド代表の愛称)」を観戦しようと6万5000人の観衆で埋められました。

身長174センチ、体重84キロ。ラグビー選手としては小柄なものの「黒い真珠」と呼ばれた快速ウイング、チェスター・ウィリアムズ氏。今年9月6日、心臓発作のため49歳で亡くなったウィリアムズ氏は生前、筆者の取材にこう語ったことがあります。

「試合の準備をしている間、人種に関係なく観衆が総立ちになって新しい国歌を歌っていました。感動的な光景で、私も大声で歌いました」

アパルトヘイト政策をとっていた南アは制裁により1985年から91年まで国際試合もしてもらえませんでした。W杯には南アの国際社会復帰をアピールする狙いが込められており、南アは初出場・初優勝を目指していました。

ウィリアムズ氏は南アのラグビー史上初、そしてただ1人の“黒人”代表選手。残り25人は全員白人だったと言います。

「W杯の栄光は君にかかっている」

ウィリアムズ氏によると、マンデラ大統領は決勝戦の試合前、更衣室を訪れ、「さあ祖国のために戦おう」と呼びかけました。そして「W杯の栄光は君にかかっている」とウィリアムズ氏を激励したそうです。

国民和解の象徴として、黒人運動で盛んに歌われた「神よ、アフリカに祝福を」(コサ語、ズールー語、ソト語)と旧国歌「南アフリカの叫び」(アフリカーンス、英語)を1つに編曲して新しい国歌が作られました。「虹色国歌」は5つの言語で歌われます。

すべての国民を代表する新国家を建設すると宣言したマンデラ大統領の願いが新しい国歌には込められていました。南アは15-12で大接戦を制し、初の栄冠に輝きます。

白人支配の象徴だったスプリングボクスのエンブレム入りのジャージーを着たマンデラ大統領は選手の歓喜に囲まれ、満面の笑みを見せたのは2009年の米映画『インビクタス/負けざる者たち』でご覧になった方も多いと思います。

これは黒人の復讐を恐れる白人社会に「国民和解」を印象づけるマンデラ大統領の巧みな戦略でした。

ウィリアムズ氏は1970年にケープタウン東64キロメートルのパールという町で生まれました。この地域では激しい反アパルトヘイト運動が行われ、ウィリアムズ氏の親友も殺されたそうです。

南アではラグビーやクリケットは裕福な白人のスポーツ、サッカーは貧しい黒人のスポーツと分断されていました。多民族の血が流れるウィリアムズ氏は白人でも黒人でもない「有色(カラード)」に分類されました。

8歳でラグビーを始めたものの12歳で一度やめ、18歳で再開。更衣室が白人選手しか使用できなかったため、ウィリアムズ氏はバスの中で着替えたこともあるそうです。W杯初優勝の後「国民和解」の象徴になったウィリアムズ氏は長い間、心の痛みを隠してきました。

「どうしてお前は我々(白人)のスポーツをしたいんだ? それが許されないことぐらい知っているだろう」と侮蔑されたり、初優勝したチームメイトの何人かから国内リーグの試合の際に避けられたりしていたことを吐露しました。

「もう過去のことです。私たちは前に進み、幸せをつかみました」とウィリアムズ氏は後に海外メディアに語っています。「私は実力で白人のシステムを勝ち抜きました。私は単純かつ明快にラグビー選手でした。それが私のストーリーです」

スポーツにクオータ制は必要か

この日の日本戦に先発出場した南アのシヤ・コリシ選手はスプリングボクスの国際試合で史上初の黒人主将になりました。しかし「マンデラ大統領はスポーツのクオータ(割当)制を支持しなかっただろう」というコメントで大きな波紋を広げました。

クオータ制とは人種間の不平等を解消するため一定数をマイノリティー(少数派)であるグループに割り当てる制度のことです。

南アフリカ人種関係研究所のマリウス・ルート氏は南アのオンラインメディアIOLへの寄稿で「コリシ選手の言い分にも一理ある。それはクオータ制ではなく、スポーツに接するチャンスの問題だ」と指摘しています。

コリシ選手が白人女性と結婚しているからそんなことを主張するのだという批判もあったそうです。マンデラ大統領の時代、クオータ制があったので、マンデラ大統領が実際にクオータ制に異を唱えていたわけでは決してありません。

ルート氏は「クリケットとラグビーでは少数の学校がトップ選手のほとんどを輩出している。これらの学校は良い施設、コーチに報酬を払うための潤沢な資金と、しばし誇り高いスポーツの伝統を持つ。南アの一流クリケット選手を生み出しているのは約40校だ」と記しています。

南アの基礎教育省によると、2016年時点で南アの2万4000校の約3分の1がサッカー施設を持ち、クリケット施設があるのは1400校、ラグビー場があるのは1000校未満だったそうです。

トップレベルにクオータ制が設けても貧しい子供たちがスポーツに接する機会が増えるわけではありません。ルート氏は「クオータ制が必要な時期は過ぎた。南アの代表チームは多様で、パフォーマンスも良好だ」と言います。

しかし「冷徹な現実は南アの多くの子供たちにとって、ラグビーやサッカー、クリケットの試合をまともなフィールドで楽しむことはスプリングボクスやクリケットの代表チームでプレーするのと同じぐらいの夢だということだ」と指摘しています。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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