過重労働とうつ病 =「ボロボロ・ガタガタ病」
「やってもやっても終わらない」
前回は、過重労働や低賃金など劣悪な条件の下で従業員を酷使した上で、必要性が低くなった時点で冷酷に使い捨てる「ブラック企業」について考察しました。今回は、過重労働を主原因として発症するうつ病の特徴について、考えてみたいと思います。
工業部品メーカーに勤務する54才C氏は、これまでの業績を高く買われて、会社期待の新製品開発プロジェクトのリーダーに抜擢されました。それ以降、仕事に追われて寝る暇もない、いわゆる「仕事人間」の生活に一変してしまいました。休日出勤は当たり前ですし、残業で帰宅が遅くなってもメールで仕事の対応を自宅でも行わなければなりません。
「やってもやっても、仕事が終わらない」と、焦りも疲労も強くなってきたところに、日帰りや1泊の出張が重なりました。景気のいいときは前泊できていましたが、経費節減と新幹線や飛行機の発達のおかげで、早朝出発・深夜帰宅が基本です。仕事に失敗した悪夢で夜中に目が覚めてしまい、そのまま眠れない夜も続きました。睡眠不足の蓄積は、C氏の心身を確実に蝕んでいきました。
半年経過して、自分が思っているほど業績が上がらないC氏は、精神的に徐々に追い詰められていきました。ある朝、普段通り家を出たC氏は、会社に向かわずにそのまま100km近く離れた海に向かい、そこで呆然と徘徊しているところを警察に保護され、そのまま精神科受診となりました。「仕事が十分達成できない」「自分は無能な人間だ」「消えてしまいたい」と、後の医師との面接では語りました。
仕事に追われて時間的余裕を失い、睡眠時間を奪われ心身ともに疲弊していくのに加え、仕事課題を消化できずに不全感を経験していくパターンです。過重労働を背景としたうつ病は、ほかのうつ病とはやや異なった特徴を持っていることに注目して、「職場結合性うつ病」という概念が、加藤敏・自治医科大学教授によって提唱されました。
「職場結合性うつ病」の特徴
職場でのうつ病の系譜としては、アメリカの内科医、ジョージ・M・ベアードが観察した労働者の姿があります。19世紀半ばに急速な産業発展を遂げているアメリカでは、労働者は会社や工場でおびただしい分量の仕事を、迅速かつ正確に遂行することを要求されていました。過度の心身緊張によって頭痛や疲れやすさ、不眠などの症状が出現することを、ベアードは「神経衰弱」として記述しました。
同じ時期に産業革命が進むイギリスでは、内科医ジェームズ・ジョンソンが、その名も「消耗症候群ないしボロボロ・ガタガタ病(wear and tear malady)」という名称で、ベアードと同じ病態を表現しています。個人的には、この「ボロボロ・ガタガタ」が、現代人にもよくあてはまっている表現のような気がしています。
また精神医学の祖と言えるエミール・クレペリンも、同様の症状を「作業神経症」と記述しています。
労働者が呈するうつ病の歴史
1831年 ジョンソン ボロボロ・ガタガタ病
1869年 ベアード 神経衰弱(ベアード型うつ病)
1909年 クレペリン 作業神経症
1971年 キールホルツ 疲労困憊型うつ病
2013年 加藤敏 職場結合性うつ病
日本の「職場結合型うつ病」は、これらの古典的病態が、現代社会の仕事の分量やスピードが指数関数的に増大した現代において、ますます深刻化する方向で変遷したと言えるでしょう。
「職場結合性うつ病」の特徴について、提唱者の加藤敏教授は、以下のようにまとめています。
注意すべきは、状態がもっとも悪い極期に自殺の危険性が高まることでしょう。通常のうつ病では、状態の悪い極期では生気もエネルギーも尽き果て、自殺する気力もありません。しかし職場関連性うつ病では、不安・焦燥が強いため、C氏のように思わぬ行動化をすることが少なくありません。
都市部で頻繁に見られる「人身事故」の名を借りた「自殺企図」の中には、かなりの部分に極期を迎えた職場結合性うつ病の自殺が含まれているのではないかと推察します。
「ブラック」「非正規」の中でのうつ病
C氏は、一部上場企業に勤める正規雇用者でした。ところが現代では、労働者の中でも、格差が生じてしまっています。正規・非正規雇用の問題です。
Dさんは、飲食チェーン店に入社した18才の女性です。地元の高校を卒業しましたが正規雇用の就職先がまったくなく、やむを得ず非正規で大手外食産業に就職しました。
接客が嫌いでなかったDさんは、頑張って正規職員になろうという希望を持っていました。しかし、実際の支店業務は過酷でした。深夜・早朝まで続く業務はもちろんですが、朝も新人は準備のため10時には出勤です。人員的にもあと5人はほしいところを、今の人員で行っていました。当然、店長以下の全員に気持ちの余裕がありません。
同じく働いていた外国人のアルバイトが突然やめてしまったため、Dさんの負荷がさらに大きくなりました。毎日3時間程度の睡眠で、いつも頭がもうろうとしている状態です。「会社に行きたくない」と朝起きても動けない時間が長くなってきましたが、母子家庭のDさんは、なんとしてでも働かないと生活していけません。
ある日、仕事に向かう途中のDさんに突然異変が起こりました。突然呼吸が荒くなり、駅で倒れてしまったのです。救急車で病院に搬送されたときには状態は回復していましたが、そのときに職場から「なんで来ないんだ、もうお前は来なくていい!」という叱責の電話が入ったとき、Dさんは急に泣き崩れてしまいました。
非正規雇用では身分・経済的補償が心許ないため、不安・焦燥がいっそう強まるのに加え、有給休暇や休職制度など「休む」権利が剥奪されている点も大きいと思います。
わたしが経験した範囲では、非正規で「職場結合性うつ病」に近い病状を取った職種としては、介護職員や外食産業、アパレルなどが思い浮かびますが、氷山の一角でしょう。非正規で薄給であり、なかなか休暇が取れないところは共通しています。「貧困結合性うつ病」というケースも、増えてきている印象です。
うつ病にならない働き方とは
先ほどご紹介した「ボロボロ・ガタガタ病」を唱えた医師ジェームズ・ジョンソンは、治療法も考えていました。「ボロボロ・ガタガタ病」の治療には年次休暇と海外旅行しかないと提言したのです。
実際に「職場関連型うつ病」の人は、入院して休息に専念させるだけで回復する例がまれではありません。規則正しい生活で奪われた睡眠時間を取り戻し、疲れ切った脳を休めます。ある程度快復後は、気晴らしの散歩などを行って体力を戻し、失われた人間らしさと自信を取り戻していきます。
この事実は、休息を確保するなど、時間の主導権を取り戻す重要性を意味しています。寝る時間はあるけれども眠れない「不眠」ではなく、仕事など睡眠時間を半強制的に奪われる「睡眠奪取(sleep deprivation)」が、「職場関連性うつ病」の重要な要因ならば、睡眠を奪われないように自己防衛することが対策となります。
現代社会におけるストレスの対価は、医療費に代表されるように非常に高くついていると思います。体力や精神力を回復させるためにより多くの費用がかかります。「ストレスに打ち克つ」リスクとコストよりも、「ストレスから逃げる」テクニックのほうが、今の日本では必要な勇気なのかもしれません。
働き方についての著書も多い経済評論家の木暮太一氏は、「精神的苦痛」を「必要経費」として重要視し、その回復分にもコストがかかることを指摘しています。
木暮氏は働き方のポイントとして、精神的な苦痛が小さい仕事を選ぶことに加え、賞味期限が長く、身につけるのが大変で、高い使用価値のある知識・経験をコツコツ積み上げることとをすすめています。上記引用の「自己内利益」とは、まさにその知識・経験のことを指しています。
職場結合性うつ病の療養指導も、不思議なくらい似ている部分があります。休息の重要性や過度なストレスを回避するスキルを、認知行動療法などで学習していきます。さらにリワークプログラムなどで成功体験を味わい自己実現を目指していくことで、不全感・敗北感を薄めていくことができます。
金銭面での問題も切り離せないでしょうから、「言うは易しく、行うは難し」であることは承知しています。しかし、C氏やDさんのようになるくらいであれば、「精神的な苦痛が小さい仕事を選ぶ」という判断を誤ってほしくないと願うばかりです。一時期は隆盛を誇っていても、いつまで存続するかわからない儚い存在である「ブラック企業」に、貴重な生命を犠牲にすることはありません。