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織田信長の台頭まで戦国時代を支配した男!「三好長慶」の不幸すぎる生涯を振り返る

山内琉夢歴史プレゼンター
三好長慶 勝瑞城館跡展示物

三好長慶は、初期の戦国時代で名を馳せた人物です。

戦国時代の日本で最初に京都を掌握し、天下統一にも迫ったことから「織田信長に先駆けた天下人」ともいわれます。

圧倒的な戦力で周囲を黙らせてきた彼ですが、最後は悲惨な死を遂げてしまうのです。

戦いに敗れたわけでもないのに天下を取れなかった彼は、どのような生涯を送ったのでしょうか。

・父親の仇に仕えた幼少期…

三好長慶ゆかりの地 勝瑞城館跡の展示物
三好長慶ゆかりの地 勝瑞城館跡の展示物

三好長慶は、畿内(京都一帯)・阿波国(現・徳島県)を治めた戦国大名です。

父の三好元長は、主人の細川晴元を将軍の次に偉い権力者にまで押し上げた実力者でした。

しかし、その絶大な影響力を警戒され、細川晴元と共謀した一向一揆の民衆によって殺害されてしまいます。

三好元長の死後、一向一揆の勢力は首謀者である細川晴元自身も制御できなくなり、暴走を開始。

当時12歳の三好長慶は、暴走を続ける一向一揆と細川晴元の仲裁(叔父が代理を務めたともいわれている)に入り、和睦を成功させました。

このときの功績が認められ、元服を迎えた三好長慶は細川晴元の家臣になっています。

御家存続のためとはいえ、父を殺した張本人の窮地を救うことになった三好長慶の心境はどのようなものだったのでしょうか。

・阿呆主人は踏み台!三好政権の誕生

三好家の家系図 勝瑞城館跡の展示物
三好家の家系図 勝瑞城館跡の展示物

細川晴元の家臣となった三好長慶は猛者が集う京都の戦場を次々に制圧し、主人の信頼を勝ち得て摂津国の半分を譲り受けています。

摂津国の産業で経済基盤を手に入れた三好家は急成長を遂げ、自立環境が整ったところで三好長慶は細川晴元への復讐を開始。細川晴元をはじめ、当時の権力者・足利義晴と息子・義輝を京都から追放しました。

そして、三好長慶が天下人への道を突き進む基盤「三好政権」を誕生させたのです。

・連鎖する不幸

三好実休 勝瑞城館跡展示物
三好実休 勝瑞城館跡展示物

京都を掌握した三好長慶は四国地方への領土拡大をはじめ、全国統一へ乗り出しました。

全国進出へ動き出した三好政権でしたが、1561年に三好長慶の弟・十河一存が病死(諸説あり)し、もう一人の弟・三好実休も戦死。そのうえ、三好長慶の嫡男である三好義興も病気でこの世を去ってしまいました。

相次ぐ不幸に精神を病んでいた三好長慶は後継者選定の際、弟・安宅冬康を殺害してしまうのです。

そして1564年、最後には病気を患い享年43歳で自身も亡くなってしまいました。

三好長慶の死後、三好政権は相続問題で争いが生じ、衰退の一途を辿っています。

三好実休 勝瑞城館跡展示物
三好実休 勝瑞城館跡展示物

そしてその後、新進気鋭の猛将として頭角を表した織田信長が、新たな一時代を築きました。

徳島県藍住町にある「勝瑞城館跡」では、今回紹介した三好長慶やその一族、細川家にまつわる資料が展示されています。ぜひ足を運んでみてください。

・勝瑞城館跡
【住所】徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地267-1
※入場料無料

歴史プレゼンター

歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。

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