部員10数名の横浜市立大から沖縄プロ新球団へ。NPB目指す三吉央起(琉球ブルーオーシャンズ)の挑戦
2020年から沖縄県に拠点を置く琉球ブルーオーシャンズ。将来的にNPB入りを目指すプロ球団で、首脳陣はロッテでエースとして活躍した清水直行監督らキャリア十分な人材が揃い、選手にも吉村裕基、比屋根渉らNPB経験者が9名集った。
新球団ながら経験豊富な人材が多く揃う中、異色の経歴を歩んできた最速147キロ右腕もその一員に加わる。小所帯の公立大野球部で急成長を果たしてプロの世界で戦う覚悟を決めるまでに至った三吉央起にその過程や今後の決意を聞いた。
突然変異
横浜市立大の三吉央起は、最終学年を目前に控えた2017年3月、“突然変異”した。指導者同士が懇意で組まれた静岡大とのオープン戦。慣れ親しんだ横浜市立大グラウンド、校庭と言った方がいいような牧歌的なグラウンドのマウンドからその舞台に不釣り合いの球が次々と投じられる。同じく両指導者と懇意で偶然足を運んだ筆者も予想していなかった球筋に驚き、スピードガンを持つ部員に聞くと、驚きの数字に耳を疑った。
147キロ。大学2年途中までは捕手。東京都市大付属高校時代は3番手投手で外野手のレギュラー。西東京大会3回戦で最後の夏を終え、大学では「友達とバンドをやろうかなと考えていました」と振り返るどこにでもいる普通の青年だった。そんな彼が、この数字によって大きく進路を変えることになった。
退路を経った“就職浪人”の1年間
147キロを出したことで記事にもなり、複数のスカウトが存在を気にしてくれるようになった。わざわざ横浜市立大や神奈川大学野球2部リーグの会場へ足を運ぶスカウトもいた。そんな矢先の8月に右肘が悲鳴を上げた。
既に進路を野球継続に絞り、一般の就職活動もしていなかった。退路を断っての挑戦の最中だっただけに、ショックは大きかった。
高校時代にコントロールが悪く一度は諦めた投手だったが、大学2年夏から再転向すると、国公立大の限られた環境ながら参考になる理論や動画などをインターネットで調べ上げ、実践と修正を繰り返した。また臼杵大輔監督が社会人の強豪チームに声をかけ、練習に参加させてもらったことで、より意識の高い考えを学ぶことができた。
そうした中で自らも驚くべき成長を遂げることができただけに諦めたくなかった。可能性が1ミリでもあるのなら諦めたくなかった。
そこで右肘のトミージョン手術(内側側副靱帯再建手術)をし、就職浪人という形で大学卒業を1年延期。その1年間でリハビリをして秋のNPBや独立リーグのトライアウトに備えることにした。
単位は十分だったため、大学4年時に紹介され、より高い見識を求めて通っていたIWAアカデミーでリハビリやケア、トレーニングを行い1つずつの課題を消化。アルバイトを同施設と喫茶店で行い生活費を稼いだ。
暗中模索の日々だったが「人の支えや縁の大切さをあらためて感じた1年でした」と話すように、それぞれの場での出会いやサポートを活力にした。
またIWAアカデミーではトレーナーの木村匡宏氏らと怪我をしにくいフォームを作り上げていった。そして、1年以上実戦から遠ざかっていた中でテストを受ける中で、琉球ブルーオーシャンズから声がかかり新天地での挑戦を決めた。
次は「与える側」に
2020年の抱負については「やるからにはNPBを目指したいです。まずは試合に出てアピールできるようにチームメイトにも負けないようにやっていきたいです」と殊勝に語る。ストレートの平均球速を上げ、最高球速を150キロ近くすること、高いレベルでも武器になる変化球を身につけることを具体的な目標に掲げる。
また激動となった大学4年、5年時代のこの2年間を振り返り「自分が人からしてもらったことを、今度は自分から与えていきたいです」と恩返しを誓う。
好きな言葉はグラブにも刻む「浪漫」。
「人の支えに加え、“自分にもできるんじゃないか”という、うぬぼれみたいなものが良い方向に導いてきたと思います。それはこれからも大事にしていきたいです」と、自分をこれまで以上に信じ、新たな世界へ飛び立っていく。
取材協力=横浜市立大硬式野球部、IWAアカデミー