もはや「LGBT理解抑制法」与党と維国の再修正案が衆院内閣委員会で可決
「LGBT理解増進法案」をめぐり、9日、自民・公明・維新・国民による「再修正案」が国会に提出され、衆議院内閣委員会で可決された。
法案では「全ての国民の安心に留意する指針を策定」といった条文が新設。これは一見、問題のない文言のように見えるが、性的マイノリティではない多数派の人々への配慮を規定するもので非常に問題がある。
つまり、政府や自治体、学校、企業におけるあらゆる施策において「多数派が"安心"できる範囲」でしか理解を広げないというものであり、これではもはや「LGBT理解増進法」ではなく、「LGBT理解抑制法」になってしまったと言える。
約2年前に超党派で合意されたはずのLGBT理解増進法の「合意案」は反故にされ、与党は内容を後退させた「修正案」を国会に提出。立憲・共産はもともとの「合意案」を提出したが、維新・国民は与党の修正案をさらに後退させた「独自案」を提出した。合計3つの法案が並ぶという異例の事態となった。
しかし、8日の夜、突如自民党と日本維新の会の間で修正をめぐり協議が行われた。翌9日の朝には、与党案にほぼ維新・国民による独自案を「丸のみ」する形で修正が合意。そして、その数時間後に行われた衆議院内閣委員会で「再修正案」が審議、可決された。
以下の図からも、いかに法案が「後退の一途」を辿っているかが一目瞭然だ。
(これまでの3つの案を比較し、問題点を整理した記事はこちら)
多数派への配慮規定
今回衆議院内閣委員会で可決された、自民・公明・維新・国民による「再修正案」で最も問題なのが「留意」事項だ。
もともと維新・国民の独自案では、この法律で定められているさまざまな取り組みの実施にあたって、「全ての国民が安心して生活することができることとなるよう留意する」という条文が新設されていた。
その背景に、LGBT理解増進法案ができると「男性が『女性だ』とさえ自称すれば、女性用トイレや公衆浴場に入れるようになってしまう」という"懸念"の声を払拭する必要があるのだという。
そもそもLGBT理解増進法案は、男女別施設の利用基準を変えるものでも、個別のケースに対して何か対処する法律でもない。女性用トイレの利用基準を変えることも、女性トイレがなくなる根拠になることもない。
性暴力や性犯罪が軽視されているこの国で、少しでも性別分けされた施設の運用に"変化"が起こる可能性があるとしたら「不安を感じる」という声自体は受け止められるべきだろう。この法案は「性のあり方は多様だという理解を広げる」ものにすぎず、その"懸念"は当てはまらないことを説明していくことが必要だ。
しかし、ここで「多数派への配慮規定」と言える条文を新設することは、ただでさえ性的マイノリティの人権が保障されていないなか、さらに理解の増進を阻むことになりかねないと言える。
自治体の条例や施策は後退か
残念ながら、与党は維新・国民による「全ての国民の安心への留意」を再修正案に盛り込むだけでなく、そのための「指針を策定する」ことも追記してしまった。
つまり再修正案では、政府や自治体、企業、学校などあらゆる領域の施策で、「多数派の人々が安心できる範囲」でしか理解を広げることはできないと示されたのだ。
「性のあり方は多様だという理解を広げましょう」という際に、「多数派が不安に感じないよう留意する指針を作りましょう」というのは、差別する側の自由を守ることであり、差別を温存するための規定であるとしか言いようがない。
例えば、「人種や民族は多様だという理解を広げましょう」と言いながら、「◯◯人について理解すると多数派が不安を感じるから留意しましょう」と言っているようなもので、非常に問題だ。
男女雇用機会均等法ができた際、男性から「女性が職場に入ってくると、(不安で)業務が円滑に回らないから」と反対の声があがったという。再修正案が示した規定は、こうした偏見をも許容し得る論理なのだ。
これまで多くの自治体で、パートナーシップ制度や差別禁止条例などが導入されてきた。もし、この「多数派への配慮規定」を盛り込んだ指針が作られると、これがまさに自治体の今後の施策の基準となり、自治体条例や施策の後退を招くことになるだろう。
実際、自民党LGBT特命委員会の初代委員長である古屋圭司議員は、自身のブログで、この法案について「むしろ自治体による行き過ぎた条例を制限する抑止力が働く」と述べている。
この点について、9日の衆議院内閣委員会でも質疑がされたが、再修正案の筆頭提出者である自民党・新藤義孝議員は、「制限する可能性」を明確に否定しなかった。
今までは、国レベルの法律がなかったからこそ、一部の自治体で先進的な条例などが広がってきた経緯があるが、後退に後退を重ね「多数派への配慮規定」を指針に定めるような法律ができるとなると、今後の自治体の取り組みが押さえつけられてしまう可能性がある。
学校での理解増進も阻害か
学校での取り組みについて、維新・国民の独自案では「保護者の理解と協力」が必要だと規定されていた。この点について、再修正案では「家庭や地域住民その他の関係者の協力」が必要という文言に変更されて盛り込まれた。
そもそも、多数派の人々の理解が足りないから、いじめや差別の問題が根深く残っている。それにもかかわらず、あえて「家庭」や「地域住民」さらには「その他の関係者」の協力が必要と明記する意図を考えると、「学校での理解を広げないための規定」であることは明らかだ。
つまり、もし家庭や地域住民から理解を広げることに「反対」があったら、理解増進が阻まれることになる。この文言を口実に、例えば旧統一教会関連の個人や団体が、学校での性の多様性に関する理解増進に反対することができてしまう可能性もあるだろう。
加えて、前述した「全ての人の安心に留意する指針」という規定は、学校での取り組みにも大きく影響する。
そのため、家庭や地域住民、その他の関係者からの反対があれば、理解を広げることはできず、さらには多数派の人々が"安心"できない場合も、理解増進の取り組みを進めることはできなくなるのだ。
いま既にさまざまな学校現場が"自助努力"的に、性の多様性について子どもたちに伝えている。教科書にも多様な性のあり方が記載されるようになり、制服の選択の自由化など、多様な子どもたちが生きやすい社会に向けて、少しずつだが、着実に変化してきている。
残念ながら、今回のLGBT理解増進法の再修正案では、こうした学校での取り組みを阻害してしまう懸念があるのだ。
過去には、2000年代の「性教育」へのバッシングで学校現場が萎縮し、現在でもなお適切な性教育の教育実践が阻まれている状況がある。LGBT理解増進法の再修正案ができると、学校現場を萎縮させ、かえって理解の増進を阻む可能性があると言えるだろう。
アクセルと同時にブレーキを踏む法律
この法律は一体誰のために、何のためにあるのだろうか。
一方では「理解の増進」を掲げながら、議論すればするほど後退し、理解を抑制する修正が加えられていく。まるで車のアクセルを踏みながら、同時に全力でブレーキを踏んでいるようなものだ。
これまで国レベルの法律がないなか、自治体、企業、学校など、さまざまな現場で取り組みが進められてきた。再修正案は、こうした現場の動きを押さえつけてしまう懸念のあるものだと言わざるを得ない。
しかし、このレベルの法案でさえ、自民党保守派のなかでは、野党や当事者の反対を口実に「廃案」にすべきだという声が根強い。一方で、このまま再修正案で法律が成立してしまうとなると、あまりに懸念が大きく、むしろない方が良いのではないか、廃案となった方が良いのではというレベルだとも思う。
法案は13日に衆議院本会議で可決される予定と言われている。その後、参議院内閣委員会で審議が行われるかによって、法案が成立するのか、それとも廃案となるのかが決まる。