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まさに「なぜ?」の連続だった 今も悔しさが残るMLBで松井稼頭央が戦い続けた理不尽

菊地慶剛スポーツライター/近畿大学・大阪国際大学非常勤講師
MLB挑戦時代は常に理不尽と戦ってきた松井稼頭央選手(写真:ロイター/アフロ)

 松井稼頭央選手が27日、現役引退を表明した。あくまで現役にこだわり続け、日米で23年のキャリアを積み重ねた生き様はまさに称賛するしかない。昨年、今年と松井選手と直接話を聞かせてもらう機会を得て、本欄でも記事として公開しているが、現役最年長になっても常に自分と向き合いながら成長したいという意欲に満ちあふれていた。本人が下した決断とはいえ、やはり寂しさを拭いきれない。

 松井選手といえば驚異的な身体能力を生かし、走攻守揃った画に描いたようなオールラウンド選手だった。2002年にはスイッチヒッターとして史上初のトリプル3(.332&36本塁打&33盗塁)を達成するなど、日本プロ野球史上で屈指の内野手であることは誰も否定しないだろう。

 だが日本人初の内野手として挑戦したMLB7年間は、松井選手本来の実力を発揮することはできなかった。それでもロッキーズ在籍時は主力選手としてワールドシリーズの舞台に立ち、MLBでの実績が評価され、大型契約でアストロズに迎え入れられたのも紛れもない事実だ。

 ただMLB時代の松井選手を間近に取材してきた立場から、今なお当時を振り返ると無念さが胸に込み上げてくる。グラウンドの裏側で松井選手が理不尽と戦い続けていたからだ。本当に「なぜ?」の連続だった。

 自分が定期的に松井選手を取材していたのは、2006年にメッツからロッキーズにトレードされてから、2010年にアストロズを解雇され、その後マイナー契約でロッキーズに戻りシーズンを終えるまでの4シーズン半の間だった。この期間最も取材に回っていた日本人記者だと自負している。時には取材現場には自分1人しかいなかったこともあった。

 残念ながら日本最高の内野手として期待を集めたメッツ時代は、故障も重なり周囲の期待に応える活躍をすることができなかった。トレードされたロッキーズでは、まずマイナーでの調整を余儀なくされ、メジャーに昇格してからも、メッツの時のように当たり前に出場機会が与えられるような信頼を得ていなかった。もちろん勝負の世界では仕方がないことではあった。

 ただロッキーズではメッツ時代の印象を払拭するような活躍をみせ、前述通り2007年には主力選手の1人としてワールドシリーズにまで進出している。これだけの活躍をしていたにもかかわらず、当時のクリント・ハードル監督は松井選手をスイッチヒッターとして評価することなく、左先発投手の際は先発から外されることが多かった。

 その理由は「左投手に打てないから」だった。確かにシーズン途中に移籍した2006年は、左打席で.381を残したものの、右打席では.125しか残せていなかった。だからといって松井選手が左投手を苦手にしていたわけでない。実際メッツ時代の2005~06年の2年間は対左投手の方が高い打率を残しているのだ。

 「使ってもらえなきゃ打てるわけない…」

 左先発投手のため先発から外れた際、松井選手が呟くように本心を漏らしてくれたことがあった。その言葉にスイッチヒッターとしてゼロからスタートし、ここまで積み上げてきた自分に対する誇りを感じ取った。結局そのシーズンは左先発投手の際はわずか18試合しか出場できななかったが、左打席の.291には及ばなかったものの、右打席でも.271の打率を残している。松井選手なりの意地だった。そしてポストシーズンに入ると、チームを牽引するような活躍をみせ、もう相手投手にかかわらず先発から外せない存在になっていた。

 再び選手としての信頼を勝ち取った松井選手は移籍したアストロズで、先発二塁手として再度十分な出場機会を与えられるようになった。2008年は故障のため96試合の出場に留まったが、MLB移籍後最高の.293の打率も残している。さらに2009年には日米通算200本安打も達成している。

 迎えた契約最終年の2010年だった。前年は打率.250に低迷したこともあり、スプリングトレーニングから雪辱に燃えていた。実際オープン戦でも.293を記録し、まずまずの状態でシーズン開幕を迎えることことができた。開幕戦でも2安打を記録するなど上々のスタートを切ったかに思われた。

 しかしこの年から指揮をとることになったブラッド・ミルズ新監督は、開幕2戦目で松井選手を先発から外した。その理由は「相手投手が左だったため」だった。この年から控え内野手として右打者のジェフ・ケッピンジャー選手が加入していたこともあったのだろうが、それ以降は松井選手とケッピンジャー選手の併用策に変わっていた。もちろん松井選手への事前説明などまったくなかった。まさに青天の霹靂ともいえる出来事だった。

 それまで毎試合出場してきた松井選手にとって難しい調整を余儀なくされた。せっかくスプリングトレーニングでいい状態を作ってきたのに、打撃は低迷していった。その一方で、ケッピンジャー選手は高打率を維持する活躍をみせ、逆にその存在感を増していった。5月に入ると松井選手の出場機会はさらに減り代打、代走起用も多くなり、さらに打てなくなるという負の連鎖に陥っていった。それでも彼は調子を取り戻そうと、ひたむきにバットを振り続けた。

 そうした状況にメディアも批判を始めるようになった。「もうマツイは必要ない」という厳しい論調まであった。結局徐々にプレーする場を失った松井選手は5月24日にアストロズを解雇された。その後マイナー契約を結びロッキーズに復帰したが、40人枠から外れていることもあり、メジャーに昇格できないままシーズンを終了することになった。

 シーズン最後の試合を戦い終えた松井選手の表情はなぜか晴れやかだった。彼はコロラドから自宅のあるロサンゼルスまで、観光名所を回りながらドライブ旅行することを決めていた。その姿を見て何となく思い出づくりではないかと感じてしまい、「松井選手のMLB挑戦はこれで終わってしまうのではないか…」という思いが胸をよぎった。実際その通りになってしまったわけだ。

 あまりに寂しい結末だったという思いは変わらない。もし2008年に別の監督が就任し、松井選手をこれまで通りに起用していたら、果たしてこのような結末になっていたのか。今も異常なほどの無念さを消すことができない。本当に松井選手が純粋な勝負の世界に身を置けていたならば…。

 周囲がどう評価しようとも、MLBで過ごした7年間、松井選手はずっと真っ向から戦い続けていた。そして自分が受けた理不尽に不平不満を一度たりとも口にしようともしなかった。改めて最大の賛辞を送りたい。

スポーツライター/近畿大学・大阪国際大学非常勤講師

1993年から米国を拠点にライター活動を開始。95年の野茂投手のドジャース入りで本格的なスポーツ取材を始め、20年以上に渡り米国の4大プロスポーツをはじめ様々な競技のスポーツ取材を経験する。また取材を通じて多くの一流アスリートと交流しながらスポーツが持つ魅力、可能性を認識し、社会におけるスポーツが果たすべき役割を研究テーマにする。2017年から日本に拠点を移し取材活動を続ける傍ら、非常勤講師として近畿大学で教壇に立ち大学アスリートを対象にスポーツについて論じる。在米中は取材や個人旅行で全50州に足を運び、各地事情にも精通している。

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