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蓮舫バッシングと「ガラスの天井」――「日本人の証明」と社会への信頼

韓東賢日本映画大学教員(社会学)
都議選を総括するなかで、「二重国籍問題」を改めて説明するよう求める声が出たという(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

民進党の蓮舫代表が近く戸籍謄本を公開し、日本国籍の選択宣言をしたことを改めて説明する方針だと報じられた。そもそもその必要などない。それどころか、百害あって一利なし、悪しき前例づくり以外の何物でもない。踏まされ続ける「踏み絵」が見せてくれるものは何だろうか。

この事件を経て、蓮舫氏は政治家としてどこに向かうのか。そのときに政治家としての真価が問われるのではないか。そう思って元記事を書いたのは半年前。少々長いが以下、転載したい。

政治家として、今や野党の党首として、蓮舫氏はこの間、何を思い、何をしていたのだろう。戸籍の公開によって「ガラスの檻」を作り、踏み絵を用意する側になりかねないという自覚はあるのだろうか。

■「私は日本人です」という言明

ここ日本で、日本人が日本人に向かって「私は日本人です」とわざわざ言わなくてはならないようなことは、ほとんどないだろう。このような言明は、それが「自明でない」とされた場合になされる。つまり、そこに「疑念」がかけられたとき、それは「弁明」としてなされるのだ。

とはいえ「○○人である」ということは、疑ったり弁明したりするような対象になりうるほど強固なものなのだろうか。「○○人である」をめぐる疑念や弁明は、何をめぐってなされているのか。つまり、「○○人」の根拠になるのは何か。

「私は日本人です」。蓮舫氏は今回、「二重国籍疑惑」をめぐって何度もこう述べた。だが、そもそも蓮舫氏はれっきとした国会議員だ。日本では国会議員になるにあたって二重国籍であってはいけないという規定はなく、日本国籍を持っていればいい。つまり、それは「制度としての国籍」を持つという意味としての「日本人であること」はクリアしていることを意味している。にもかかわらず蓮舫氏が「日本人です」と繰り返さなくてはならなかったのは、疑念がそこにあるからではない。

これは、同じ女性で自民党の参院議員、現五輪担当大臣である丸川珠代氏が「日本人でよかった」をキャッチフレーズにしていることとは対照的だ。丸川氏が「日本人です」という事実如何をスルーしてその先の「よかった」という価値判断に行けるのは、その事実が「自明」である(と、されている)からだ。だが自明だという意味では国会議員である蓮舫氏も同じだろう。

■さまざまな要素が支える「○○人」

制度としての国籍には、国家がそれを与える要件として、地縁による出生地主義と血縁による血統主義という大別して二通りの考え方がある。つまり、生まれ育った土地という地縁と、ルーツや血統という血縁が、「○○人であること」を支える二大要素であるのは間違いない。そのうえで、こうした土台のうえでそれと絡み合いながら人々が身にまとっている文化、さらに、これらに対する人々の認識や意識が、「○○人であること」を支えている。

いわば「○○人であること」は、これらの要素の組み合わせだ。それは国籍を与える要件を定めた国籍法が国によって違うように、それぞれの社会あり方や仕組みによって、また時代によって、さらに認識や意識――アイデンティティ――のレベルだと、個々人によっても大きく異なっている。また、それぞれの要素がきれいに均等に結ばれているとは限らないし、ひとつひとつの要素がグラデーションをなしていたりもする。

とはいえ、近代においてこの世界は国民国家単位で成り立っており、そのような近代国民国家としての日本を代表するのは政府である。今回、蓮舫氏の「二重国籍疑惑」がことさら騒ぎになったのは、蓮舫氏が民進党の代表選に出馬したからだ。もとより国会議員は国民の代表であるが、ましてや野党第一党である同党が与党になった場合は、首相として政府のトップに就く可能性の高いポジションであることから出てきた「疑惑」だろう。日本以外の国の国籍“も”持っている者に、その“資格”があるのかどうか、というわけだ。

そのような批判は、「国益」を盾に国家機密の漏えいや二国間の利害が対立した際の判断が誤る可能性を説き、なかには「スパイ」呼ばわりするような声さえあった。だが、先に述べたような背景があり、またグローバル化が進んだ現在、国籍と忠誠心とをイコールで結ぶのはそう簡単なことではない。また本物のスパイだったら書類や証明書の偽造などは朝飯前であり、必要であれば「○○人」に簡単に偽装できるだろう。国籍を忠誠心の源のようにとらえるのは、古くて硬直的な、また言い方を変えれば「お花畑」的な国籍観だと言えなくもない。

とはいえ国会議員は国民の代表であり、その存在は「国家のかたち」「国民の輪郭」のメルクマールともなる。だから今回、このような議論が巻き起こったのであり、それは正しく「日本社会の自画像」であるのかもしれない。だからこそ、前述したように丸川氏は「日本人でよかった」をキャッチフレーズにして、選挙に勝利した。かつて1983年の衆院選挙で、故新井将敬氏の選挙ポスターに、同じ選挙区から立候補していた石原慎太郎氏の陣営が「北朝鮮から帰化」というシールを張ったのも、同じ構図だろう。

■日本社会と「多文化主義」的なもの

でも今や、蓮舫氏のようなルーツを持つ、しかも女性が、選挙区では毎回トップ当選の国会議員として首相を目指し、それが射程に入るポジションに就けたのだと思うと、今回のような騒ぎはあったものの、個人的に感慨はある。

法の下の平等についての主語を「すべて国民」とする現行憲法のもとで始まった戦後民主主義体制は、女性たちにそれまでなかった参政権をもたらすものではあったが、その一方で、旧植民地出身者を一方的に外国人とすることでそこから排除し、血統においても文化においても「純粋な日本人」が日本社会を構成する「国民」であるという「単一民族神話」と結びついたものだった。

今回の騒ぎに見られるように、そのような国民イメージは今も大きく変わってはいない。それどころかより狭まっているようなところもある。だが、戦後70年を振り返ってみると例外的な時期もあった。1990年代~2000年代初頭は、東西冷戦の終結や、1980年代に入ってニューカマー外国人の人口が増えるなかで事実上の多文化社会であることが可視化されるようになったこともあって、社会的な雰囲気として「多文化主義」がもっとも肯定的にとらえられていた時期だった。

蓮舫氏が大学在学中に芸能界の登竜門と呼ばれたキャンペーンガールに選ばれたのは1988年、テレビのバラエティ番組などでタレントとして活躍した後、報道番組のキャスターに抜擢されたのは1993年、さらに参院選挙に初挑戦で当選して政界デビューを果たしたのは2004年、まさにそのような時期だ(これは、1歳違いの在日コリアン女性として同じ時代を生きてきた私の実感にも沿っている)。

ここにいたるには、政界だけを見ても、1994年から1998年まで参院で1期を務めたアイヌ民族初の国会議員である故萱野茂氏や、2002年から2013年まで同じく参院で通算2期を務めたフィンランド出身のツルネン・マルテイ氏らの存在もあっただろう。政界での女性の活躍という意味でも、1986年に憲政史上初の女性党首となった土井たか子氏率いる社会党が参院選挙で大勝し、22人の新人女性議員が当選した「マドンナブーム」は1989年だった。

■制度的な背景の複雑な経緯

今回、「私は日本人です」と言明し続けた蓮舫氏だが、その説明は二転三転した。それを政治家として、党首として、首相の器としてふさわしくないという声もまた多かった。政治家として活動し始める前の、雑誌等のインタビューにおける自身のアイデンティティに関する語り――それは、「私は日本人です」という言葉とは字義的には矛盾する――を問題視する向きもあった。

蓮舫氏は台湾人の父と日本人の母の間に、日本で生まれた。蓮舫氏が生まれた1967年、日本の国籍法は父系血統主義だったため、父親の国籍を受け継いだ。しかしその後、日本の国籍法が改定され1985年から父母両系になったことで、当時17歳だった蓮舫氏は届出によって日本国籍を取得した。この際の国籍法改定により、二重国籍を持つ者は外国の国籍を離脱するか日本国籍の選択を宣言する届出をするよう定められた(だが、国籍離脱は罰則規定のない「努力義務」である)。

当初、二重国籍疑惑を否定していた蓮舫氏の説明は、当時、父親に連れられて東京にある台湾の代表処で国籍放棄の手続きをした記憶があるというものだった。言葉もわからず、父親に「日本人になった」と言われたのでそう思いこんでいた、ということのようだが、台湾(中華民国)の国籍法は未成年者の国籍離脱を認めておらず、蓮舫氏の国籍も残っていたことが今回確認された。その後、蓮舫氏がその確認に先立ち、改めて進めていた国籍離脱手続きは完了したが、現在、中華民国政府を正式な政府と認めていない日本政府が同政府発行の国籍離脱証明書を受理しなかったことから、蓮舫氏は結局、日本国籍の「選択届」を改めて提出することになった。

蓮舫氏本人すら確定することが困難だったこの複雑な経緯を、事前に予測できた人がどれだけいるだろうか。当初、事実関係について不明なまま不正確な知識をもとに垂れ流される理不尽で偏見に満ちた「批判」の数々に業を煮やし、私もあるネットメディアに記事を書いたのだが、蓮舫氏の発言をひとつひとつ検証し、背後で絡みあっている制度の変遷とつき合わせて読み解いていく慎重な作業が必要だった。

■「信頼」と政治家としての行方

前述したように、日本の国籍法が父母両系血統主義となったことにともない、1985年に17歳の時点で「二重国籍」になり、その時点で離脱できなかったとしても22歳までに選択宣言が必要だったのは事実だろう。だが当時、そのあたりのことを、とくに蓮舫氏のご家族がどのように認識していたのかは知る由もない。また、父母両系への転換にともない導入された離脱や選択を求める制度がどの程度周知され、認知されていたのかも不明だ。

蓮舫氏自身、今回のことがあるまで本当に何の疑いも持っておらず、このような問題が生じる可能性についてまったく考慮の外だったように思う。そもそも政治家としての蓮舫氏は、これまで自身のルーツの部分を、政策面でもキャラクター面でも自覚的に売り物にしてきたことはないように見える。おそらく制度的なことに精通しているわけでもないだろう。その点、同じ民進党で日韓ダブルの白真勲議員が日韓友好を訴えヘイトスピーチ対策法の成立にも尽力したり、フィリピン出身の韓国セヌリ党のイ・ジャスミン議員が韓国の多文化政策で役割を果たそうとしているのとは大きく違う。

タレントからキャスター、政治家と転身してきた蓮舫氏の経歴を見る限り、そしてその「時代」を考える限り、よくも悪くも時代が蓮舫氏を自然に受け入れ、蓮舫氏はそこで自然に振る舞ってきた、その結果が今のポジションなのではないだろうか。おそらく出自とは直接関係のない、個人の特性としてのルックスと立て板に水のような語り口が、タレント、キャスターとしての成功を経て、キャラクターが重視される現代の政治家としての蓮舫氏の最大の売りであり、トップ当選の人気を支えてきたのだろう。

さて今回、このような騒ぎを経て、蓮舫氏は何を感じたのだろうか。もし政治家としての「脇が甘かった」のだとしたら、少なくともかつては今の私よりも日本社会を「信頼」していたのだと思う。だからこそ、この国で政治家を目指したのだろうし、首相を目指しているのだろう。今回、その「信頼」が少しでも損なわれたのだとしたら、今後、政治家としての蓮舫氏はどこに向かっていくのだろうか。そのとき、蓮舫氏にとっての真の「ガラスの天井」が何であるのかが、より明確に見えてくるのかもしれない。

*アジア女性資料センター『女たちの21世紀』88号(2016年12月)特集「『女性宰相』待望論の光と影」より転載。

日本映画大学教員(社会学)

ハン・トンヒョン 1968年東京生まれ。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンのことを中心に日本の多文化状況。韓国エンタメにも関心。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006.電子版はPitch Communications,2015)、共著に『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(2022,有斐閣)、『韓国映画・ドラマ──わたしたちのおしゃべりの記録 2014~2020』(2021,駒草出版)、『平成史【完全版】』(河出書房新社,2019)など。

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