「問題発言」を繰り返すのは、政府・自民党執行部と伝統的な自民党気質のギャップと考えてみる
タイトルは、藤代裕之さんのエントリからのインスパイア。
「問題発言」を繰り返すのは、安倍政権の高度な世論操作プロレスだと考えてみる(藤代裕之)- Y!ニュース
自民党議員によるメディアでの「問題発言」が相次いでいる。これをどう読み解くのか。果たして、「問題発言」が相次ぐ真意はなにか。マスメディア、新聞紙面、ネット界隈でも議論が絶えない。
藤代さんは、以下のように述べている。
個人的には近しくも、少々そのプロセスについて、異なった仮説を持っている。
政府・自民党執行部と伝統的な自民党気質のギャップを手がかりに考えてみたい。
藤代さんも指摘するように、またこれまで拙著などでも指摘してきたように、自民党が2000年代以後、政党としては、ほぼ唯一、連続する積極的なメディア戦略を採用している。ネット選挙の解禁にきわめてアグレッシブだったことも、こうした文脈のなかに位置づけることができる。『Wedge』誌の6月号が指摘するように、民主党政権のもとでは削減対象であった政府の対外広報予算も、最近では増加傾向にある。現在の政府・自民党執行部が積極的なメディア戦略を採用しているといえそうである。
他方で、伝統的な自民党気質はどうか。これはある種、統治の知恵として、メディアと共犯関係にあったことも、よく知られている。たとえば政治側でいえば岸信介の回顧録には、60年安保の賛成世論を惹起しようとしていた旨の言及があるし、メディアの側ではやはり渡邉恒雄の回想に政治との蜜月関係が赤裸々に言及されている。あるいは、もう少し遡っていうなら、日本の自由民主主義的基盤は総力戦体制下のメディア網を踏襲しつつ、事前事後の検閲によって実現したものであることもまた周知の事実である。その意味では、建前としては「言論の自由を保障」しつつ、実質的には言論に介入するという態度が、伝統的な自民党気質であったと捉えられそうである(この傾向は、表現の自由を定めた憲法21条に制限を追加した自民党の憲法草案とも似ている)。
これらの認識に立つなら、政府・与党執行部は、急速に現代的な戦略PRやメディア戦略に急速に舵を切ったが、個々の議員レベルでは、未だ十分には浸透していない、つまり両者の間にギャップがあると捉えることができるのではないか。
結論としては、藤代さんとはほぼ同種のものである。昨日のエントリの言い方に倣うならば、やはり政治とメディアの関係が共存・協調関係から、対立・コントロール関係へと変容しているという認識に立つことができる。とはいえ現状は過渡期であり、それらが十分に浸透していないという状況ではないか。
さて、これもまた、いつもと同じ結論なのだが、ここまで述べてきたようなメディアと政治の関係の変容を踏まえたうえで、従来のジャーナリズムのメリットを継承しつつ、デメリットを補完する報道手法の開拓が求められる。とくに規模の大きな従来型マスメディアにとって、経営的にも、国民からの信頼という点でも急務だ。だが、そうした試みはなされているだろうか。管見の限りでは、なかなか心許ないものがあるが、どうか。