Yahoo!ニュース

裁判所はなぜ、娘に性的虐待を続けていた父親を無罪としたのか

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
(GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ)

 女性が性被害を訴えた事件で、被告人が無罪となる1審判決が4件相次いで報じられたことで、裁判所に対する批判が挙がっている。性暴力の問題に取り組む女性らが集まり、無罪判決に抗議し、「司法を変えていこう」「裁判官に人権教育と性教育を!」などと訴えるスタンディングデモも行われた。

 とりわけ、19歳の娘に対する性行為が準強制性交罪に問われた父親が無罪となった名古屋地裁岡崎支部の判決について、批判が大きい。ネット上では「バカ裁判官」「悪魔」「鬼畜」などと裁判長への罵詈雑言が飛び、罷免を求める署名まで行われている。週刊新潮4月18日号は、「娘を性のはけ口にした父が無罪というバカ判決『裁判長』」と題する批判記事で、裁判長の大きな写真を掲載した。

 私が目にした限り、批判には検察官についての論評は見当たらなかった。判決文を読んだ弁護士による批判記事でも、本件についての検察官の捜査・立証活動については言及がない。

 刑事裁判は、検察官と被告人・弁護人が、証拠を提出し、主張を述べ、いわば裁判官を説得し合う競技だ。そこで大事なルールは、有罪の立証責任は検察側にある、ということ。検察官が十分な有罪立証をできなければ、「疑わしきは被告人の利益に」で無罪としなければならない。無罪判決に納得がいかないにしても、検察側は本当に「合理的な疑問をさしはさむ余地がない」までに有罪立証ができていたのか?という問いはあってもよいように思う。

裁判には父親の自白調書も出された

 本件で父親が問われた罪は、娘(以下A)が「かねてから被告人により暴力や性的虐待等により被告人に抵抗できない精神状態で生活しており、抗拒不能の状態に陥っていることに乗じて」、2017年8月12日(第1事実)と9月11日(第2事実)の2回、性交した、というものだ。

 性行為があったことは、裁判でも争いがない。

 Aの精神鑑定を行った精神科医は、「性的虐待が積み重なった結果、父親には抵抗できないのではないか、抵抗しても無理ではないかといった気持ちになっていき、心理的に抵抗できない状況が作出された」と証言した。

 しかも、自分の暴力や性的虐待によって娘が抵抗したり逆らったりできない精神状態になっていることを、父親が自ら認める供述調書も複数作成されていた。

 にも関わらず、なぜ無罪になったのか。

 これまでの報道や判決批判でも、裁判所がそのような判断をした理由が十分に伝えられていない。司法に何らかの提言をするにも、制度改正を求めるにも、まずは裁判所がどういう事実に基づいて、どのように考えてこの結論を導き出したのかを、まずは知ることが大切だと思う。

 そこで、(個人的には思うところはあるが)あえて私見を交えない形で判決の内容を紹介し、裁判所がどのような判断をしたのかをお伝えすることにした。

裁判所が認めた事実は何か

 判決は以下のような事実を認めている。

1)被告人(=父親)は、Aが中学2年生の頃から性的虐待をくり返してきた。Aが高校を卒業して専門学校に入った頃から頻度が増した。Aは弟に相談し、同じ部屋で寝てもらうようにした時期には虐待はやんだが、その後、弟が別の部屋で寝るようになると、性的虐待は以前にも増して行われるようになった。

2)本件第1事実の前に、Aが自室で就寝中に被告人から性交されそうになった際、抵抗して殴る蹴るの暴行を受けたことがある。この時は性交には至らずにすんだが、ふくらはぎに大きなあざができた。弟らにも、その事実を伝えた。

3)Aは両親に相談せずに大学への進学を決め、推薦入学試験に合格したが、期日までに被告人(父親)が必要な費用全額を納付できず、入学できなかった(被告人は生活保護を受給していた)。その後Aは、両親が学費の関係で反対するのを押し切って専門学校に進んだ。入学金や授業料は被告人が立て替え、Aが返済することになった。被告人は当初、月に8万円の返済を求めたが、返済額は結局、月に4万円となった。Aは当時アルバイトをして、月8万円前後の収入があった。

4)本件第1事実は、被告人がAを載せて車で出掛け、買い物をした後、被告人の勤務先の事務所で行われた。その日、他の従業員は休みだった。

5)第2事実の前日、被告人に翌日の予定を尋ねられたAが、友人の車で映画の前売り券を買いに行くことを告げると、被告人は、自分が連れて行きホテルに行く、と述べた。当日、被告人は車を乗せてラブホテルに行った。

6)Aは、複数の友人に父親からの性的虐待を相談しており、警察に相談するよう勧められていた。Aが、父親が逮捕されると弟が「犯罪者の息子」になってしまうと案じたので、友人は警察のほかにも女性相談室があることを教えた。Aは「市役所に相談しようかな」などと話していた。別の友人も相談を受け、警察や児童相談所に相談するよう勧めた。Aが映画の券を買いに行く際には、その友人が車で送る約束をした。Aが、父親の車で行くことになった、と伝えると、友人は父親の申し出を断らないAをたしなめた。

7)Aは第2事実があったその日のうちに、市の相談窓口に学費相談の予約を入れ、4日後に市役所で学費の件と合わせて性的虐待についても相談。被告人の性的虐待が公的機関に明らかとなった。

被害者の同意はなかった

 裁判で、被告人は性行為には同意があったと主張したが、裁判所は、

a)いずれもAの意に反するものだった

b)被告人は継続的な性的虐待を通じて、Aを精神的支配下に置いていた

c)Aは学費等の返済を求められ、経済的な負い目を感じており、被告人の支配は従前より強まっていた

と認めた。

 精神鑑定を行った医師は、

Aは父親には抵抗ができないのではないか、抵抗しても無理ではないかといった気持ちになって、心理的に抵抗できない状況が作出された

などと述べており、裁判所はその意見には「高い信用性が認められる」とした。

 ただ、本件があった時、Aは「離人状態」にあったと推測できる、とした医師の意見については、判決は次のように書いている。

〈検察官は、この点をAが抗拒不能の状態に陥っていた裏付け事情の1つとして上げているが、Aの本件各性交時の記憶が比較的良く保たれていることに加え、鑑定においてAにつき解離性障害の程度に関する心理検査も実施されていなかったことからすると(中略)抗拒不能状態の裏付けとなるほどの強い離人状態(乖離状態)にまで陥っていたものとは判断できない〉

出典:判決書

「なお合理的な疑いが残る」と

 そのうえで、先に列挙した事実に加え、

*A証言においても、性交を拒んだ際に暴行を受ける頻度はさほど多くなかった

*Aは両親の了解を得ずに大学進学を決めたり、反対を押し切って専門学校に入学を決めて、入学金や授業料として多額の費用をいったん被告人に負担させた

*Aは父親の性的虐待から逃れるために、家を出て1人暮らしをすることを検討していた

などの点を挙げて、次のように判示した。

〈被告人は、Aの実父としての立場に加えて、Aに対して行ってきた長年にわたる性的虐待等により、Aを精神的な支配下に置いていたといえるものの、その程度についてみると、(中略)Aが被告人に服従・盲従するような、強い支配従属関係が形成されていたものとは認め難く、Aは、被告人の性的虐待等による心理的影響を受けつつも、一定程度自己の意思に基づき日常生活を送っていたことが認められる〉

出典:判決書

 そして、本件当時のAの心理状態について、こう述べている。

〈抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、なお合理的な疑いが残るというべきである〉

出典:判決書

 この判断の前に、判決は「心理的抗拒不能」についてこう説明している。

〈行為者と相手方との関係性や性交の際の状況等を総合的に考慮し、相手方において、性交を拒否するなど、性交を承諾・認容する以外の行為を期待することが著しく困難な心理状態にあると認められる場合〉

出典:判決書

 他の事件の判決にも、同様の記載は見られ、裁判所共通の基準と言えるだろう。

 Aが弟の協力を得たり自分で抵抗したりして性的虐待を逃れたことがあり、進学などでは逆らう対応をしていることから、この基準に照らせば、「抗拒不能」とまでは言い切れない、というのが、今回の裁判所の判断だった。

言ってもいないことが書かれた検察官調書

 では、捜査段階で娘が「抗拒不能」であることを認めていた父親の供述調書はどうなのか。

 本件では、少なくとも検察の取り調べの際には、録音録画が行われていた。おそらく弁護人からの請求があったのだろう、裁判所はこのDVDを検討し、その結果を判決で次のように書いている。

〈(調書の)同供述部分に対応する被告人の供述が見当たらないか、取り調べを担当した検察官が断定的に問い質した内容に対して被告人が明示的に否定しなかったことをもって被告人が供述したかのような内容として記載されていることが確認できる〉

出典:判決書

 要するに、被疑者が言いもしない供述を言ったかのようにして調書に記載していた、ということだ。

検察側の立証に不十分な点はなかったのか

 ここからは私見が入る。

 検察が取り調べの際に、録音録画を行ったのは適切だった。

 驚くのは、録音録画が行われている中で、被疑者が言ってもいないことを検察官が調書に書く悪弊が、今なお行われている、ということだ。こうした事実も、裁判所の姿勢を、より慎重に検察側の主張立証を検討する方向に向かわせたかもしれない。

 日本の刑事司法では、起訴された事件の多くが有罪となる。最新の司法統計(2017年)から、全国の地裁・簡裁における1審の有罪率を計算してみると(注:有罪、無罪、免訴、公訴棄却の各判決の総数を母数とした)、刑事事件全体で99.8%。性被害事件(統計の項目は「わいせつ、強制性交等及び重婚の罪」)でも、有罪率は99.5%で、同年の無罪判決は7件に留まる。有罪判決は難しいからと不起訴となり、司法手続きからふるい落とされている事件は少なくないだろうが、ひとたび起訴された後は、性犯罪に関しても、圧倒的に有罪率が高い。

 しかも本件は、検察側の主張に沿う精神鑑定があり、被告人の自白調書もできたことで、性的虐待を受けた娘の心理状態について、検察側立証に甘さがあった、ということはないのか。

司法判断を検証できる新たなルール作りを

 それについては、判決書を読んだだけでは分からない。

 判決書は、裁判官が自分たちの判断の正しさを説明する文書とも言え、結論に適合する形で様々な証拠が評価され、緻密に組み立てられている。だから、それだけ読むと説得力があるように感じるが、様々な証拠を見たり証言を聞いたりした後だと、判決の評価には違和感がある、というケースは、そう珍しくない。

 本当は、検察の活動や裁判所の結論を適切に評価するためには、裁判記録全体を検証する必要がある。裁判が確定した後なら、その記録は「何人も」閲覧できることになっている(刑事訴訟法53条)。しかし、刑事訴訟確定記録法にある「公の秩序、善良な風俗」「犯人の改善更生」「関係人の名誉、生活の平穏」などの理由で見せてもらえない記録は多い。性被害を伴う事件はなおさらであろう。

 それどころか、判決書へのアクセスも容易ではない。

 司法の判断基準や法律が問題をはらんでいたり時代遅れだったりすれば、是正しなければいけない。しかし、それによって新たにえん罪が生まれやすい構図ができあがっても困る。だからこそ、本当は丁寧に今の司法判断を点検し、多角的な視点で議論を深めて欲しい。

 被害者のプライヴァシーに気を遣わなければならないのは言うまでもない。性的な被害に関してはなおさらだ。だから、個人特定につながる具体的な情報は伏せるとしても、裁判所が判断をした経過やその根拠がわかる資料は、必要とする人がアクセスできるようにしなければならない、と思う。

 たとえば、あらゆる判決書をデジタル資料化し、個人特定につながる具体的な情報を伏せたうえで、全国のどこの裁判所でも閲覧できるようにして、判決を検討したい人が最寄りの裁判所に出かけて閲覧できるようにするなど、いろいろと工夫の余地はあるのではないか。

 被害者のプライヴァシーを守りつつ、裁判所の判断や検察の捜査・立証活動をきちんと検証できるようにするにはどうするか。そのためのルール作りが必要だと思う。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

江川紹子の最近の記事