教員残業代支給報道、教育予算削減で教員不足・学校現場の疲弊が加速する懸念
共同通信が「公立校教員に残業代支給を検討 定額廃止案、勤務時間を反映」という報道をし、教員に働いた分だけ残業代が支給されるのか、という期待が膨らんでいるように思います。
残念ながらそうではありません。
1.文科省予算(つまり教育予算)削減を意図した報道、教職員増員案もなし
共同通信の報道の背景にあるのは、一部の政府関係者が、文部科学省がすでに予算要求している「教職調整額」増額(教員の残業代の代わりとしている手当を4%→13%に増額)の案を白紙に戻させ、たとえば月20時間分(文部科学省が設定した教員の働き方改革の目安となる残業時間)までの残業代しか支給しない案を、実現しようとする意図です。
たとえば、といったのは関係者から教育財政の専門家である私に寄せられる情報が錯そうしており、いったい何時間分を上限とした残業代であるのかが現時点では不明確だからです。
また教員の残業時間を減らすことは重要ですが、残業代支給と同時に教職員の増員(義務標準法改正)を行うなどの報道を共同通信はしていないことが重要なポイントです。
つまり教員の残業代は上限分しか支給しない、いっぽうで学校現場に人は増やさない、そのような関係者の意図が反映された共同通信報道だと判断しています。
いっそう学校の働き方のブラック化が進み、教員不足・学校現場の疲弊が加速する懸念があるのです。
2.文科省は「働き方改革の加速化、学校の指導・運営体制の充実、教師の処遇改善」の三本柱改革を実行中
文科省が「教職調整額」の増額で意図をしているのは、教員に人材確保をするためです。
実際に、教職調整額を増額する方針により、離職を思いとどまる教員や、民間給与も上昇する中で、教員を進路として決めやすくなったと考える学生もいます。
しかしそれだけでは教員の働き方改革は進みません。
私自身が、2024年6月1日の記事でまとめていますが、いま文科省が進めようとしているのは「働き方改革の加速化、学校の指導・運営体制の充実、教師の処遇改善」の三本柱の改革です。
・教員の長時間労働を解消する!(働き方改革の加速化)
・そのためにも教員・教員以外の人材も学校現場に増やす!
(学校の指導・運営体制の充実)
・子どもたちのために頑張る先生の給与を上げる!
(教師の処遇改善、給特法改正)
具体策の実行のために、8月に概算要求もし、下記の改革が来年度から実現されていく見通しです。
・11時間の勤務間インターバルの導入
・持ちコマ数減のための教員定数改善
・小学校教科担任制の中学年拡大のための専科教員の定数増
・生徒指導担当教諭の全中学校への配置
・支援スタッフの更なる配置充実
共同通信報道の意図は、これらすべての予算を削減していくことにも置かれている懸念があります。
子どもたちのためにより良い教育を実現したい方は、残業代支給報道に浮かれている場合ではないことをご理解いただけたでしょうか。
3.カギとなるのは日本教職員組合(連合加盟団体)の考え
共同通信報道には、過半数割れした石破政権のもと、「教職調整額」の見直しをし残業代支給を衆院選公約として掲げた国民民主党・立憲民主党の力で、文科省案を潰し教育予算削減を実現しようとする意図が読み取れます。
この状況下でカギとなるのは日本教職員組合(連合加盟団体)の考えです。
立憲民主党・国民民主党は、それぞれ日教組・連合と関係の深い団体です。
実は日教組はすでに8月に書記長談話の中で「働き方改革の推進や処遇改善には十分な予算が必要であり、来年度予算における教育予算確保は喫緊の課題である」と明言しています。
もちろん日教組も教員の残業代支給が将来的な目標ではあるのですが、まずそのためにも、教育予算拡大という大きな目標に取り組んでいる文科省の方針である「働き方改革の加速化、学校の指導・運営体制の充実、教師の処遇改善」の三本柱を実行することを支持しています。
おわりに:どの政党が、子どもたちの幸せで豊かな公教育のために、現実的な議論と教育予算拡大が実現できるのか注視を!
私も含めて、心ある関係者は学校現場に十分な予算・人員が配置され、教員もそれ以外の専門職・スタッフも、適切な労働時間と賃金・手当が支給され、そして大人に余裕があり子どもたちが幸せな公教育・学校を願っているはずです。
共同通信報道の方針で改革が強行されてしまえば、教員の退職・離職やいま以上の教員不足が起こり、そのゴールから遠ざかることになりかねません。
いま石破政権だけでなく、与野党上げて実現すべきは、「働き方改革の加速化、学校の指導・運営体制の充実、教師の処遇改善」の三本柱のはずです。
国民民主党や立憲民主党が子どもたちや学校現場を苦境に陥れるような判断をするのか、私はそうではないと信じています。
ここからの議論でどの政党が、子どもたちの幸せで豊かな公教育のために、現実的な議論と教育予算拡大が実現できるのか、私たちは注視していかなくてはなりません。