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左も右も若者に対して無責任で失礼 朝日と産経の成人式社説対決は酷すぎて引き分けだ

常見陽平千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家
札幌に帰省しています。ラスボスいっぱいと思ったら成人式でした。(写真:Michael Steinebach/アフロ)

私は成人式が嫌いな人材である。絶望の国の幸福そうなイベントは、偽善と欺瞞に満ちている。

自分の成人式もまったく行く気になれず、欠席した。成人した若者の新たな門出を祝う儀式というのが建前なのではあるが、これほどの茶番もないだろう。若者が夢や希望を持てる社会を創ることができなかった、いや、自ら延命のあがきをしている世代に「おめでとう」と言われても嬉しくもなんともない。各地域の市長、区長などが挨拶をするわけだが、彼らもまた新成人に、次の選挙では私に入れて欲しいという下心からお祝いしている。

もちろん、若者の中にはこの日を楽しみにしていた者もいることだろう。地元の仲間に会える、晴れ着やスーツを着ることができる、と。しかし、「地元」の仲間の間にも埋めがたい格差や分断、断絶がある。その「晴れ着」なるものも、色はバラバラだが画一的だ。リクルートスーツは毎年、画一的で気持ち悪いと批判されるのに、晴れ着は批判されないのはなぜだろう。

この「晴れ着」を着てこの式にやって来れる人も同世代の中では「勝ち組」と言えるかもしれない。この日に仕事やバイトがある人だっている。地元に友達がいない人もだ。昔のいじめられた経験など、懐かしさの一歩手前の苦い思い出に震えてしまう者だっているだろう。

成人式や、社会に対するルサンチマンを吐露するのは、この辺にしておく。ここからが本題だ。毎年、この日、新聞が書く成人式関連の社説や成人式報道をチェックしている。これは、成人式以上の茶番なのである。

ただでさえ、「若者の新聞離れ」が叫ばれる中、社説で成人式を論じ、若者へのエールを送ったり説教をしたところで、届くはずがない。お年を召した論説委員などが、笑止千万の妄言を垂れ流したところで、若者にとっては、直接的には何の危険性もなく、無害なものであるはずだ。

しかし、新成人の保護者や、教育者、さらには企業の幹部などは未だに新聞を読んでいる。ここで間違った若者像と、説教を流布されては間接的に新成人が迷惑するのである。ましてや、若者が夢や希望を持てるような社会を創ることができなかった責任はなかったことになってしまう。

さて、今年の成人式関連の社説だが、ある意味、大きな特徴は全国紙で成人式や新成人のことを社説で取り上げたのは朝日と産経だけだったことだ。もちろん、他に取り上げるべきニュースがあればそちらを優先するのも筋だが、年々、そもそもこの話題自体の優先順位が下がっていることに注目したい。

その朝日と産経だが、それぞれ若者の実態を捉えたものとは言い難いものだった。一言でいうと、朝日は意識高い系、産経は言いっ放しの老害芸だ。左と右の横綱による取り組みはいかに。

(社説)成人の日 希望と不安と焦燥と:朝日新聞デジタル

https://www.asahi.com/articles/DA3S13303752.html

朝日新聞の社説は、20歳の時に徴兵検査を受けた水木しげるのこの言葉から始まる。

「時代はわが理想を妨害する。どうだっていい、理想をおし通そうじゃないか」

出典:朝日新聞デジタル

「現実をみれば、どんな将来の理想もふっ飛んでしまう」「心細さと不安の中に呼吸する。なにくそ」

出典:朝日新聞デジタル

他にも学生時代にデビューしベストセラーを何冊も生み出している直木賞作家朝井リョウや、引きこもり体験のあるお笑い芸人の山田ルイ53世のエピソードなどが紹介される。

最後は

20歳という通過点での生き方で、一生が決まるわけじゃない。自分は自分の道をいけばよい。大人に、ましてや新聞に「かくあるべし」なんてお説教されるのはまっぴらだ、と思うくらいでちょうどいい。その大人たちだって、いまだ冷や汗をかきながらの人生なのだ。成人の日、おめでとう。いまを生きる者同士、ともに七転び八起きしましょう。

出典:朝日新聞デジタル

というメッセージで終わる。

一読すると胸を打つ言葉のようだが、偽善そのものだ。その20歳までの「生き方」なるものは、若者が主体性を発揮して勝ち取るものではない。生まれ育った環境が関係する部分もある。また、「一生が決まるわけではない」「自分は自分の道をいけばよい」というメッセージ自体が、若者にとっては何の救いにもならない。その自分の道を進めなる言葉自体、社会が劣化する中で無責任に発信される自己責任論と通底するものであり、何の救いにもならない。なお、新聞の説教は若者には届かない。

「みんな同じボードゲームをやりすぎやと思うんです。用意されているマスでしか動くことを考えてないから、学校行かなかったらアウト、みたいなことになる。自分でマス目書いたってええんとちゃうか」

出典:朝日新聞デジタル

という山田ルイ53世の言葉も、無責任だ。そのボードゲームすら用意されていないことに、若者自体、気づいているのである。

幼少期からの読者として愛を胸に苦言を呈させて頂くが、これこそが「朝日新聞的」なるものであり、日本の左派の限界点である。「左翼は金持ちの道楽」という言葉があるが、要するにお金や能力や仲間などがあることを前提としたものなのだ。軋む社会を捉えていない。ゆえに、若者にもその保護者にも響かないし、救いにならないのだ。

【主張】成人の日 「誰か」ではなく「自分」が - 産経ニュース

http://www.sankei.com/column/news/180108/clm1801080002-n1.html

一方、西ならぬ右の横綱は伝統の老害芸である。大人とは何かという問いかけ自体は良い。制度的な大人と、社会的な大人は違うからである。もっとも、その後は、言いっ放しだ。事もあろうに中年世代ですら忘れかけているH2Oの「想い出がいっぱい」の歌詞を引用して、次のように問うている。

誰かが幸せにしてくれるのを待ち続ける姿勢は「シンデレラ症候群」とも呼ばれるが、ここには大人の自覚は見られない。自らの人生は自らの力で切り開くと決意することこそ、大人の階段を昇る第一歩なのではなかろうか。

いや、奨学金という名の借金を背負いつつ、将来に夢も希望も見出せない今時の若者たちはとっくに自分の力で人生を切り開いているのだ。いや、日々バイトをしている今どきの若者たちは、大人たちよりも立派に自立をしているのだ。大人の階段を登りきっておらず、いまやレッド・ツェッペリンの名曲風に言うと「天国への階段」を登る世代に言われたくはないのである。

最後には唐突に献血の礼賛だ。献血という行為自体は否定しないが、アルバイトのしすぎで貧血気味の若者にはまるで響かないだろう。社会貢献の仕方も多様である。第一、日々、目の前にある学業やアルバイトですら、社会貢献なのだ。

私は本日の朝日新聞でもコメントしているし、産経デジタルで連載を持っている。両社とはこれからも良い関係は続けたい。それでも、この一見すると忘恩的かと思われるような論を叩きつけたのは、今ここで起ちあがらないならば、若者滅亡の危機さえ招くことを直覚したからだ。私も含めて既得権益者が若者の理解者ぶっても若者は救われないのだ。それよりも、社会をよりよくすること。そのために、目の前のことをやること。これが大人である。

何よりも、この社説を見た新成人はどう思うだろうか。違和感があったのなら、怒りの拳を叩きつけるべきだ。普遍性を装った美しい言葉、俗耳になじむスローガンに騙されないことこそ、大人としての大事な姿勢である。

最後に新成人の皆さんへ。私はおめでとうなんて言わない。君たちにとって夢と希望の持てる世の中を創ることができず、申し訳なく思っている。もう既に頑張っているので、そのまま前に進んでください。つまらない大人にならないでください。

千葉商科大学国際教養学部准教授/働き方評論家/社会格闘家

1974年生まれ。身長175センチ、体重85キロ。札幌市出身。一橋大学商学部卒。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。 リクルート、バンダイ、コンサルティング会社、フリーランス活動を経て2015年4月より千葉商科大学国際教養学部専任講師。2020年4月より准教授。長時間の残業、休日出勤、接待、宴会芸、異動、出向、転勤、過労・メンヘルなど真性「社畜」経験の持ち主。「働き方」をテーマに執筆、研究に没頭中。著書に『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)『「就活」と日本社会』(NHK出版)『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)など。

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