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女子バレー森谷史佳 現役生活を締めくくる「最後の1本」。引退を決意した最後の1年で伝えたかったこと

田中夕子スポーツライター、フリーライター
今シーズン限りで現役を引退する森谷史佳(写真/デンソーエアリービーズ)

 大げさじゃなく、何万本も打ち込んできた。

 コート中央からライト方向へ走り、片脚で踏み切り、ストレート側のブロッカーの左手を狙ってストレートに打つ。

 5月4日、黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会準々決勝。デンソーエアリービーズで主将を務める森谷史佳にとって、その1点は生涯忘れることのない1本だ。

「最後(の試合)も、スタメンで出られたわけではなく途中出場でしたけど、でも1本、ずっと自分がバレーボール選手としてこだわって、武器として練習し続けてきたスパイクが決まって、本当に嬉しかった。いい締めくくりになりました」

パイオニア、久光、デンソー、Vリーグでは12年の選手生活

 バレーボールを始めたのは小学3年生の頃。高さとパワーがあり、共栄学園高時代から全国大会で上位へ進出、U18、U20、U23日本代表にも選出された。

 高校卒業後はパイオニアレッドウィングスへ進み、直後からレギュラーとして活躍。入団1年目には最優秀新人賞にも輝いた。

 国際経験と日本国内での活躍、順風満帆なスタートに見えたが、最初の困難に見舞われたのは入団3年目の年だ。所属するパイオニアレッドウィングスが14年9月に活動を休止した。やっとVリーグ選手としてのキャリアが始まったばかりで、しかもレギュラーとして不動の地位を築きつつあったところで、チームがなくなる。「これからどうなるのか」と不安を覚えたが、久光製薬スプリングス(現・久光スプリングス)から声がかかり、より高いレベルでの挑戦を決意した。

 当時の久光は11/12シーズンから18/19シーズンまでの8年続けてVリーグで決勝進出を果たし、五度の優勝を果たしたまさに最強チームだ。移籍直後から出場機会を得られたわけではなく、ようやくチャンスが巡ってきたのは移籍した14/15シーズンの中盤、年明け間もない頃から。負傷した水田祐未に代わり、1月10日の埼玉上尾メディックス戦で途中出場を果たし、次戦から10試合、スタメンで出場する機会を得た。

 アクシデントに伴い巡ってきた機会ではあったが、1人の選手としては逃したくない。リハビリを経て水田の復帰が近いことを感じ取っていたからこそ、何とか今できるアピールを、と必死にプレーし続ける中、今度は森谷自身がアクシデントに見舞われた。

 2015年2月15日のトヨタ車体クインシーズ戦の第3セット。相手の攻撃を防ぐべくブロックに跳び、続けて攻撃へ入ろうと助走に下がった瞬間だった。

「バコっ、と急に来たので、交錯して誰かに蹴られたと思ったんです。隣にいた(石井)優希さんに当たって蹴られたのかな、と思ったら、優希さんは全然違う場所にいて、あ、違うんだ、と。前日は身体が重かったんですけど、この日は朝の練習中から身体が軽くて、いくらでも跳べる気がしていて。すぐコートを出て、病院で検査して、アキレス腱が切れている、と言われた時に、あーもう復帰できないんだ、終わった、って思いました」

 もともとVリーグに入った頃は、アンダーカテゴリーで日本代表に選ばれるような選手であるにも関わらず、バレーボールを長く続けるつもりはなかった。3年ぐらい頑張ればいいか、と考えていたこともあり、大きなケガから手術、リハビリを経て復帰を遂げるイメージがわかない。

 諦めかけた時、助けてくれたのは共にプレーするチームメイト、同じポジションの選手たちの存在だった。

「(岩坂)名奈さん、ミズ(水田)さん、先輩の方々が『きついだろうけど、待っているからね』と言ってくれて、それが本当に嬉しくて。久光は比較的上下関係がきっちりしていたチームだったので、先輩と話すことにむしろ自分が臆していたのに、自分が苦しい時に一番支えてくれたのが先輩たちだった。頑張らなきゃ、と自然に前を向くことができました」

Vリーグでのキャリアはパイオニアレッドウィングスからスタート
Vリーグでのキャリアはパイオニアレッドウィングスからスタート写真:YUTAKA/アフロスポーツ

最後の1年、意識したのは「伝える」こと

 復帰を果たしてから延べ5シーズン久光に在籍し、19/20シーズンにはデンソーへ移籍した。21シーズンからは主将も務めたが、学生時代からさかのぼっても主将はこれが初めて。「そもそも絶対に向いていないタイプ」と笑うが、だからこそ心がけたのはチーム全員が円滑にコミュニケーションを取り合える関係を築くこと。

「言葉で伝えるのが苦手なので、まずは姿勢で示そうと思って一番初めに練習へ行って、ネットを張って準備する。上だから、下だから、というのは関係なく、みんなが一緒にやっていける、下の子からも話しやすい雰囲気をつくりたかったんです。周りに自分の行動を見せる、見てもらうということ自体、キャプテンになってから初めて意識するようになりました」

 デンソーでの4シーズン目、開幕前から今季限りでの現役引退も決意していた。

「今まで経験してきたことを全部、下の子たちに伝える。やれることは全部やりきろう、という気持ちでした」

 高校までやパイオニアに入った頃はコートに立つのが当たり前だったが、久光に移籍し、ケガも経験して試合に出られない苦しさも知った。デンソーでも試合出場の形はさまざまで、ミドルブロッカーでありながらサーブ力を評価され、リリーフサーバーとしての出番も多くあった。

 そしてその経験こそが、森谷が「伝えたい」ことだった。

(写真/デンソーエアリービーズ)
(写真/デンソーエアリービーズ)

不器用でも「武器があれば勝負できる」

「ミドルも若い選手が増えて、出られる選手ばかりでなく、出られない選手もいる。自分も経験があるのでわかるけど、出られないのは悔しいですよ。でもそこで何か1つ、武器を見つけてほしいと思ったし、それはブロックやスパイクだけでなく、ポジション以外の武器で戦うことも必要だよ、と伝えたかった。いい時ばかりじゃなく、苦しい時もあるけれど、何か武器があれば戦える、というのは伝えたいと思ってやってきました」

 ドタドタ動いて、バタバタ跳ぶ。不器用で、どんくさくても「1人でいくらでも練習できる」と磨いてきたのがサーブで、たとえ前衛には立てずとも試合に出る機会は努力を重ねてつかみ取ってきた。

 でも、だからこそ。

 最後の1本は、ミドルブロッカーとして「武器だ」と正面から言い切れる前衛での攻撃、しかも一番得意としてきた攻撃で点が取れたことが、たまらなく嬉しかった。

「高校生の頃からずっと練習してきて、最後の試合で1本打てた。もう本当に、やり切れました」

 充実感と、これで終わり、の寂しさ。溢れる涙を拭いながら、最後は笑顔で。

「楽しかったです。こんなに長く続けることができて、幸せでした」

 日本代表として華々しいキャリアがあるわけではない。お世辞にも華麗とか器用だとは言えないが、泥臭く「決めてやる」とばかりに全力で挑む姿勢は、高校生の頃からずっと変わらず、見ていて楽しい選手だった。

 またここから、新たな道へ歩んでも胸を張って伝え続けてほしい。

 不器用でも、どんくさくても、信じた武器を磨けばいくらだって好きな道で勝負していけるんだよ、と。

やりきった、と涙し、最後は笑顔で現役生活を終えた(筆者撮影)
やりきった、と涙し、最後は笑顔で現役生活を終えた(筆者撮影)

スポーツライター、フリーライター

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、月刊トレーニングジャーナル編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に「高校バレーは頭脳が9割」(日本文化出版)。共著に「海と、がれきと、ボールと、絆」(講談社)、「青春サプリ」(ポプラ社)。「SAORI」(日本文化出版)、「夢を泳ぐ」(徳間書店)、「絆があれば何度でもやり直せる」(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した「当たり前の積み重ねが本物になる」(カンゼン)などで構成を担当。

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