皇族はどう生きるべきかを問うー『秋篠宮』をどう読むか
元毎日新聞記者でジャーナリストの江森敬治氏による『秋篠宮』(小学館)が話題を呼んでいる。秋篠宮の記者会見などの公式ではない肉声が掲載されているからである。
象徴天皇制下において、皇族の肉声が出版されることはあった(江森氏の秋篠宮に関する著作もこの『秋篠宮』で2冊目である)。しかし、今回はそれとは異なる意味を持つ。
それは第一に、小室眞子さんと小室圭さんの結婚をめぐる問題があったがゆえ、秋篠宮はそれに対してどう考えているのかという点での関心が高かったからだろう。実際、この『秋篠宮』が発売されて以降、テレビなどではそうした観点から、この本のなかでの秋篠宮の発言が紹介されることが多かった。
第二に、皇嗣という、現在の皇室典範では次の天皇になる立場の人物ゆえ、その発言は現在の、そして今後の象徴天皇制を考える上で、大きな影響やインパクトを与えるのではないか、という点である。第一の点がこの『秋篠宮』の前半に、第二の点が後半に記述されているが、実は私は後半がポイントではないかと見る。
『秋篠宮』の第四章「令和を迎えて」では、皇嗣としての心構えを聞かれた秋篠宮は、「象徴天皇制を担うのは、あくまで天皇であり、私は兄を支える、助けることに徹するのではないでしょうか」と答えている。ここで興味深い点は、秋篠宮が「象徴天皇制」という言葉を使用していることである。この「天皇制」という言葉は共産党由来ゆえ、使用するだけで拒否反応を示す保守派の人々は多い。しかし、当の皇族自体が使用しているということは、それだけ概念として定着していることを示している。また、天皇を「兄」と表現しているのも興味深い。この『秋篠宮』には上皇を「父」、上皇后を「母」と呼ぶ秋篠宮の発言が随所に見られる。皇族といえども、一つの普通の家族であることを示しているのではないか。
また、第五章「一人の人間として生きる」は、より天皇・皇族の人間としてのあり方を私たちに突きつける。平成の天皇の退位について、「家族の立場から、この判断には全面的に賛成でした」と述べている。天皇の定年制について提起していたこともある秋篠宮であったが、平成の天皇を父親として見、その姿から退位に賛意を示したという。だからこそ、「ビデオメッセージ」後に「祈っているだけでよい」という旨の発言をした保守派に対して、「このように話している人たちは、天皇が『祈ることができない状況』になった場合には、どのようにするべきだと考えているのでしょうか」と強調する。年老いた一人の人間としてその人を見ると、自分で認識できる前に、自身の意思で、引退を決意させることが必要ではないか、そう子どもの立場から述べたのではないだろうか。
そして第六章「問題提起」で、秋篠宮は次のような言葉を述べている。
これは、小学校低学年のころにペットとして飼っていたヒツジを思い出しての発言という。皇族として生き、常に注目され、自由が制限される暮らしに対して、ヒツジにはそうした苦悩がないように見えるのかもしれない。そしてこうした問題は、この『秋篠宮』の前半部分、つまり前述した第一の問題である、小室眞子さんと小室圭さんの結婚に通底しているようにも思われる。
皇族がこうした思いを持っていることを、私たち自身、受け止めて考える必要があるだろう。天皇の象徴としての地位は、主権者である私たち国民の総意に基づくのであるから。『秋篠宮』はそうした問題を投げかけた著作であるように思う。