ビッグバンドという“重荷”を“成長”にコミットさせるリーダーの飴と鞭〜谷口知巳 Interview
結成は2006年(たぶん=本人談)。百花繚乱だった日本のビッグバンド・シーンにも陰りが見えて、その大所帯を維持するのが難しくなってきたと言われていた。
“京都コンポーザーズ・ジャズ・オーケストラ”は、関西で活躍するプロのミュージシャンを中心に、そんななかで旗揚げをしたビッグバンドだ。
吹奏楽人口100万人と言われ、むしろ“身近な趣味”として親しまれる存在であるにもかかわらず、プロとして活動するにはハードルが高いのがビッグバンドの実状。
音楽ビジネスのみならず、ジャズという文化も“節目”を迎えている21世紀の現在、ビッグバンドはどのように生まれて、どこをめざして行くのかを知りたいと思い、リーダーの谷口知巳に話を聞いてみた。
♪ 「過去に頼らないプレイ」が最初のハードル
──京都コンポーザーズ・ジャズ・オーケストラって、結成はいつなんですか?
谷口:2006年っていうことになっているんですけど、実はよく覚えていないんですよ(笑)。
──自分がリーダーのビッグバンドを作ろうというとき、“縛り”というか、メンバーと共有したい最低限の約束事みたいなことはありましたか?
谷口:自分のなかでは、ほかのビッグバンドに参加していて、なるべく過去のフレーズは吹かないというようなことをトライしていました。そういうことを共有できるメンバーに入ってもらいたいというのはあったと思いますね。ただ、そういう人をそろえるのはかなり現実的ではないので(笑)、そういうことに興味がある人の何人かに核となってもらって、ほかの人にも声をかけてもらうという感じでスタートしました。
──ジャズのタイプとしては、どのへんを中心にしようと?
谷口:ウォーン・マーシュとか、レスター・ヤングなんかが好きな人に来てもらいたかったというのはあったと思います。まぁ、探したというより、“作っていった”というほうが近いかな。
──表立っては言わないけれど、そうなるように?
谷口:そうですね(笑)。だから、人間的には好きだったけれど、そのフレーズを吹かれちゃうと違うなという人は交代してもらったりしてましたから。実は現在のメンバーは、1人を除いてすべて入れ替わっているんですよ。特にリズムセクションは、私がかなり強めに要求したりしていましたから(笑)。
──そういう方針って、どのぐらいでカタチになってくるものなんですか?
谷口:実は、最初のころは、表立って「ライヴをやります」とは絶対に言わなかったんです。メンバーは集まってライヴはやるけれど、告知はしない。
──どのぐらいのペースでのライヴ開催だったんですか?
谷口:何ヵ月かに1回はやっていました。でも、友だち関係のみを誘ってというノリでした。それを3年ぐらいやっていました。3年ぐらい経つと、曲も溜まってきたのでアルバムを作ろうということになって、それからはライヴの告知もするようになったんです。
──その3年目あたりで、続けていかれる“手応え”みたいなものをつかめたと?
谷口:そうですね。ソリストも花が咲いてきた感じがあったし。ただ、私の正直な気持ちとしては、ビッグバンドとしての花が咲いてきたなと感じるのは、今年なんです。つい最近。
──最初のアルバム(『Kyoto Composers Jazz Orchestra directed by Tomomi Taniguchi』2008年)を作ろうというのは、次のステップに進むきっかけにしたいというのもあった?
谷口:はい。周囲からも「まだ早いんじゃないの?」ってよく言われていたんですが、そんな意見、聞くつもりはまったくなかった(笑)。とにかくアルバムというカタチにしないとスタートできないって思っていました。ほかのバンドを基準にして考えるのが嫌だったというか、まずは自分たちのアルバムを作って「ほかとは違うんですよ」と言いたかったんです。
──京都コンポーザーズ・ジャズ・オーケストラはオリジナル曲を中心にして活動を続けていますが、それってたいへんですよね。
谷口:たいへんです(笑)。
──曲はどのように依頼するんですか?
谷口:えっと……、なんとなくごはん食べてて、「曲、書いてよ」って感じです(笑)。お金は出ないけど、ステージで作曲者名は連呼するからって。それでいて、できあがってきた曲に対しては、ここが気に入らないから変えてほしいとか、そんなノリです(笑)。
──そういうやりとりをおもしろがってくれる人と出逢えるというのも重要ですよね。
谷口:たまたまそういうのが積み重なった、という感じですね。もちろん、上手くやりとりができなくて、「もういいかな……」って思うことも何度かありましたけど、やっぱり無くなっちゃうのは惜しいから。
──オリジナルを自分たちで音にしていくって、自分のなかで具体的なイメージが作れるかがとても重要になってくるから、環境が整っていないと進めないのでは?
谷口:その部分は大きいと思います。
──一方で、オリジナル曲は譜面どおりなんですか?
谷口:譜面ももちろん重視しますが、リハーサルをして、聴いた印象で作曲者と話し合ったりします。
──“作曲者が絶対”ではないんですね?
谷口:メンバーも作曲者に対して意見を言うし、私も伝えたかったものと違っている部分を指摘したりしています。
──作曲者とそういう関係を作れるビッグバンドって、すごく特異というか、京都コンポーザーズ・ジャズ・オーケストラの“強み”ですね。
谷口:そうですね(笑)。っていうか、作曲者を含めてみんな、“完全”じゃないと思っているんですよ。キミの才能はオレがいちばん知っているから、それをどうにかするために、なにか協力してくれ、というスタンス。例えば、最初に曲ができてきたときにやってみた印象だと、「これにはチンチンがないよ」って注文を付ける。要するに、私が作ってもらいたかった曲のイメージより男性的な部分が弱かったということを伝えるわけです。そうすると「これはどうだ」と作り直してくれる。そんな感じでやっています。最近ではとうとう、「メロディのない曲を作って」って頼んで……。
──ああ、先日の東京公演(2018年10月27日のTokyoTUC)でやった「プレイ・ウィズ・ア・ファントム」(アルバム『Hyojo』収録)ですね。
谷口:そうそう。バンドに対する自由度をもっと上げてほしくて、コードはあるんだけど、それをすぐに無視できるようにしたいとか、そんな注文を出して作ってもらっています。
──その期待に応えてくれると思うからこその無茶ぶりですね。
谷口:そういうことになりますね(笑)。
──リーダーとしては、曲の完成とバンドの完成、どちらを重視しているんでしょう?
谷口:最初から狙っているのは、個人の完成です。その次に段階的な曲の完成があって、その結果、バンドが成長すると思っています。やっぱり、個人の、1人ひとりの成長が、すべての完成を導いていくんじゃないでしょうか? わざわざビッグバンドというスタイルを選んで、集まって音楽をやる楽しさはそこにある、と私は思っているので。
──個人の成長に期待するのはいいとして、ビッグバンドとしてのサウンドをまとめるためには、いわゆる“下駄を履かせる”ような考え方も必要かと思うのですが、その点はいかがですか?
谷口:確かに、現実的にそれは必要かもしれませんね。でも、そのなかで個性を伸ばしてもらえればいいかな、と。そういえば、つい先日のリハーサルでも、ソリストに「ウラでは決められたことをきちんとやればいいけれど、ソロではパンツを脱ぐような演奏をしないとダメなんだよ」って言ったことがありました(笑)。
──パンツを脱いだような、自分の殻を破る勢いのあるアドリブがほしい、と。
谷口:そうそう。なにを格好付けているんや、と。そういうことが上手く伝わって、バンドの音になっていけば良いなと思っています。
──ビッグバンドの、というか京都コンポーザーズ・ジャズ・オーケストラのリーダーって、AV監督みたいなんですね(笑)。
谷口:まぁ、自分も偉そうなことは言えないけど、やってみないとわからないという商売の道を選んでいるわけですよね。日々、仕事はこなしていけるけど、音楽的にそれが成長につながるかどうかはわからない。だからこそ、やってみてよ、って。それに対して私は、やったから続けられるとか成長できるとかは言えないけれど、応援だけはするから、ということです(笑)。
♪ カウント・ベイシーが導いた音楽への道
──中学のころって、どんな音楽を聴いていました?
谷口:ロックというか、ポップス系ですね。ベイ・シティ・ローラーズ、キッス、クイーン……。そのあとにディープ・パープル、イーグルス。ABBAとか流行ってましたね。ラジオからは古めのフォーク・ソングとかが流れていたかな。かぐや姫ですね(笑)。
──最初に買ったレコードは?
谷口:たぶん、カウント・ベイシーのルーレットのベスト盤だと思います。一緒に『サキソフォン・コロッサス』を買ったんですが、そっちはよくわからなかった(笑)。それに対してベイシーのほうは勢いというか迫力があったので、いいなと思って、よく聴いていましたね。それとほぼ同時に、グレン・ミラーかな。両親がグレン・ミラーを知っていて、「有名なんだよ」とか言われて。そうこうしているうちに、世の中に「スイングジャーナル」という雑誌があることを知って、そこに載っていたアート・ペッパーのアルバムを買ったりするようになりました。
──楽器を始めたのもそのころですか?
谷口:そうですね。中学校に高校のビッグバンドの人が偵察に来ていたんですよ。
──偵察?
谷口:楽器やっているヤツがいるなら声をかけておこうみたいな感じなんです。
──そのころはもうトロンボーンを?
谷口:そうですね。小学校のとき、鼓笛隊でトランペットを吹いていたんですが、中学に上がったときに吹奏楽をやってみたくなって、それだとトランペットは難しいかなと思って。
──吹奏楽だとトランペットのほうが人気があるのに。
谷口:っていうか、自分の演奏に限界を感じていたんです。そのときはそれ以上、楽器を鳴らすのが難しいんじゃないかと思っていた。それでトロンボーンならいいかもと思ったわけです(笑)。
──サックスという選択肢もなかった?
谷口:まだいろいろな音楽を聴いていなかったので、どんな楽器があって、どれがいいとかよくわかっていなかったんだと思いますね。ジャズならサックスのほうが花形だとかも知らなかったし(笑)。レコードを買い出すようになると、J.J.ジョンソンなんかのアルバムを聴くようになったんですが、あまりおもしろいとは思わなかった。やっぱりマイルスやロリンズのほうがいいですよね(笑)。
──高校のころはどんな曲を演奏していたんですか?
谷口:完璧にカウント・ベイシーを演奏する吹奏楽部でした。ジャズのビッグバンドのスタイルだったんです。
♪ 自分のヘタさに直面したアメリカ留学時代
──大学進学のときの進路については?
谷口:別に深い考えはなく、1つ上の先輩が愛知学院大学に入ったので、そこにしようかな、と。愛知学院大学のビッグバンドって、すごく強豪だったんですよ。実際に入ってみると、やっぱり体育会系で、楽器の上手い下手ではなく学年で上下関係ができあがっていて、それで嫌になっちゃって……。ちょうどそのころ、ジャズのアドリブを教えてくれる教室があるのを知って、そっちに通うようになったんです。だから、大学1年でビッグバンドからは離れることになりました。
──部活から離れると、演奏活動もなかなか難しくなるのでは?
谷口:いやいや、アマチュアの大学生が部活をやっていたとしても、そんなに演奏の場はありませんよ。特に地方だとね。楽器を持っている人が集まって、練習がてら演奏しに行く、という感じなので、定期的に演奏活動ができるような環境ではありませんでした。プロというものがどういう状態なのかも、どうしたらなれるのかも、周りにヒントになるような人も出来事もなかったので。それでとにかくアドリブを習いに行って、レコードを聴きまくっていました。
──大学卒業後の進路については?
谷口:そのときも自分でなにか目標があってというのではなく、ある先輩がバークリー音楽大学に行くというのを聴いて、「そういう道もあるのか……」という感じ(笑)。親に「アメリカへ行きたいんだけど」と言ったら、反対はされなかったんですが、「本気か?」って(笑)。確かに、言っている本人も現実感がなかったから、そうなりますよねぇ。で、奨学金の応募のためにデモ・テープを送ったら、「いいですよ」って返事が来て、じゃあ行こうかな、みたいな感じでした(笑)。
──学生時代、人前での演奏経験はあったんですか?
谷口:ええ。トロンボーンって、けっこう声をかけてもらえるんですよ。まぁ、いま思えば目も当てられないような演奏でしたけど(笑)。
──アメリカに留学して、どうでしたか?
谷口:まず思ったのは、自分がものすごく下手だということがわかったということ。だから練習もしたし勉強もしたけど、あまりにも音楽的な基礎がないままで来てしまったということを思い知った、という感じでしたね。
──ショックが大きかった?
谷口:はい(笑)。ただ、まだ当時はレコードで聴いていて憧れていた人たちが生きていたので、日本にいるより気軽に観ることができたのはよかったですね。
──学校では?
谷口:最終的にハル・クルーク(Hal Crook)という人に習ったんですけれど、最初は彼がなにをしているのかぜんぜんわからなかった(笑)。
──難しいということですか?
谷口:というか、彼が吹いているトロンボーンの、どこが上手いのかというあたりが、まずわかりませんでした。でも、だんだん耳が慣れてくると、彼が出そうという音が伝わるようになってきた。
──環境というか、文化の違いが音の理解を邪魔していたというような感じでしょうか。
谷口:そうかもしれませんね。アメリカに行って感じたのは、音楽のことよりも文化的な部分の違いのほうが大きかったから……。
──文化というと……。
谷口:真っ先に感じたのは、食い物ですね。不味いなぁって(笑)。こっちの人はこんなものを毎日食べているのかって。まぁ、すぐに慣れましたけど。それから、言葉も新鮮でしたね。レコードをよく買いに行ったんですが、「レコード」って言ってもよく通じなかったり。フリーを重視する国だということはわかっていたつもりなんですけど、あらゆる場面で「責任は自分で取ったうえでの“自由”」ということが徹底していることに驚かされましたね。
──そうした考え方が、ジャズという音楽にも反映されていると?
谷口:そうですよね、きっと。
──帰国のきっかけは?
谷口:バークリー音楽大学の卒業後に1年間だけニューヨークに住んでいたんですが、ビザの関係でバイトも十分にできないし、そろそろ学生気分でいるのにも疲れてしまって、働きたくなったんです。ちょうどオランダに学校を作るという話があって誘われたんですが、自分には無理だと思って断わって、帰国することにしました。
──帰国してほどなく関西の名門ビッグバンド、アロージャズオーケストラに参加してますね。
谷口:帰ってきたら、たまたまアローのトロンボーンに空席ができるから入らないかって言われて、入ることができたんですよ。
──オーディションなしで?
谷口:なかったです(笑)。アローは、リーダーの北野さん(北野タダオ)のバンドでアメリカに行く前に1ヵ月ぐらい仕事をしたことがあったんです。アロー時代は忙しかったんですけれど、ジャズはほとんど演奏できないような仕事が多かったですね。それで、やっぱり自分でなにかしたくなってきて、お客は来ないけどライヴをやったりはしました(笑)。そのころから曲も作ったりスタンダードを編曲して吹いたりして、一緒にやって行けそうな人を探していたんですね。帰国して半年ぐらいだったかな、C.U.G.ジャズ・オーケストラに呼ばれて参加するようになったり。C.U.G.は好きに吹かせてくれるのでおもしろかったですね。まだバンドの立ち上げ時期だったので、活動自体は安定しているとは言えませんでしたが。でも、そのころちょうど、有名なビッグバンドがどんどん解散していったんですよ。関西ではアロー以外はほとんどなくなってしまった。メンバーだった人が新たにビッグバンドを立ち上げたりはしていたんですが、何度か行ってみたけれどありものの譜面をやることが多かったりして、アメリカで見てきたビッグバンドの現場とは違うなぁと思うこともあって、行かなくなっちゃいました。それで、立ち上げたのが京都コンポーザーズ・ジャズ・オーケストラだったんです。
──自分がやりたいことをやるためには、自分がリーダーになって責任をもたなければできない、と。
谷口:そう、まさしくそうですね(笑)。
《取材日:2018年11月23日》
谷口知巳プロフィール
大学在学時から、森田利久(g)、太田邦夫(p)他のグループでライヴ活動を開始する。卒業後、ボストンのバークリー音楽大学に奨学生として留学。Hal Crook(tb)、Jerry Bergonzi(ts)、Herb Pomeroy(arr)他に師事し、Ricky Ford(ts)、George Russell(comp)などのビッグバンドにも参加し、Milt Hinton(b)、Frank Lacy(tb)、Ran Blake(p)、他と共演。ニューヨークに移ってからは、Conrad Herwig(tb)、Jimmy Knepper(tb)、他に師事し、多数リハーサルバンドなどに参加。同時に、インディアナ在住のBill Adam(tp)に師事しビルアダムブラステクニックを習得。帰国後は、自己のカルテット、ノネット(9人編成)の他に、北野タダオ(p)&アロージャズオーケストラ、C.U.G.ジャズ・オーケストラ、サウスサイドジャズバンド、ユミコニアンオーケストラ他に参加し、ライヴ活動の他に、多数レコーディングもこなす。CDレーベル Newburry Street Musicを立ち上げ、『I May Not Remember』、『The Place I belong』、『2225 South High Street』の3枚のリーダー作を発表。また、注目されるアーティストのアルバムのプロデュースもしている。ジャズ専門誌「スイングジャーナル」の人気投票にも幾度となく選出。2006年からは京都コンポーザーズ・ジャズ・オーケストラのリーダーとしても活動し『Kyoto Composers Jazz Orchestra directed by Tomomi Taniguchi』、『Cross Culture』、『Anatomy of a band』などを発表。最新作は『Hyojo』。http://kyotocomposersjo.wixsite.com/official-web