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【光る君へ】一条天皇には定子以外に愛した妃がいた?『源氏物語』と一条後宮の共通点(家系図/相関図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ)(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)との愛の軌跡を描きます。

一条天皇(演:塩野瑛久)といえば、「一帝二后」の印象が強く、妃は定子(演:高畑充希)と彰子(演:見上愛)のイメージしかありませんが、もちろん一条天皇の後宮には、ほかに数名の女御がいました。

今回は、一条天皇の後宮の妃たちについて書きたいと思います。

◆彰子のライバルは定子以外にいなかったのか?

◎まだ幼い彰子と若い一条天皇

先週9/8放送の『光る君へ』では、まひろの「殿御(とのご)はかわいいものです」の言葉を受けて、彰子は一条天皇を男性として意識していることを自覚し始めます。

彰子20歳、一条天皇28歳。

しかし一条天皇の方は彰子を「一人の女性」として見ることはなかなか難しかったようです。

特に入内当時の彰子はまだ数え歳で12歳(満11歳)と幼く、彰子の前で天皇は自分を「おじいさん」と言ったと伝わります。

まだ20歳そこそこの天皇が「おじいさん」とはかなり自虐的ですが、彰子は無反応。

一条天皇が笛を吹きながら「こちらをご覧なさい」とやさしく声をかけても「笛は聴くもので、見るものはありません」と答える始末。

ただこの逸話、ドラマではかえって、一条天皇が彰子に興味を持つきっかけとなりました。

「自分は母の操り人形だった」と嘆く天皇には、相手の望むままでいようとする彰子は自分自身を見ているようだったのでしょう。

ところで、ドラマの一条天皇は定子のことばかり考えているように描かれていますが、実は天皇には定子のほかに寵愛する妃がいました。

◎一条天皇妃には兄道兼の娘もいた!

最初、一条天皇の妃は定子一人でした。定子の父・道隆(演:井浦新)がほかの貴族をけん制していたからです。

道隆の薨去後、906~998年(長徳2年~4年)には次々とほかの貴族たちも娘を入内させました。

・太政大臣・藤原公季(きんすえ・演:米村拓彰)の娘・義子(弘徽殿女御)(道長のいとこ)
・左大臣・藤原顕光(演:宮川一朗太)の娘・元子(承香殿女御)(道長の従姪)
・関白右大臣・藤原道兼(演:玉置玲央)の娘・尊子(前御匣殿女御)(御匣殿は貞観殿内に存在)(道長の姪)

道長にとって、姪である尊子が3人の中で一番の近親者です。

尊子の入内は父道兼の死後のため、彼女の入内には一条天皇の母・詮子(演:吉田羊)や道長の思惑があったと考えられます。

定子の子・敦康親王同様に、(いずれ入内させる)彰子に親王が生まれなかったときの「保険」のようなものでしょうか。

しかし残念ながら、尊子は一条天皇のお気に召さなかったようです。

ややこしいので、家系図をどうぞ!

◆一条天皇後宮と源氏物語

◎一条天皇が愛した妃が引き起こした怪事件

一条天皇が寵愛したのは、道長のいとこである顕光(演:宮川一朗太)の娘・藤原元子(演:安田聖愛)です。

ドラマの中で、一条天皇の母・詮子を中心となって一条天皇の妃を選ぶシーンがありました。

「藤原顕光の娘で母が村上天皇の皇女」ときいた詮子が「よいではないか」と乗り気になっていたのは元子のこと。

また、天皇が定子に夢中でほかの妃へのお渡りがないというので、道長と嫡妻の倫子(演:黒木華)が天皇と元子のために一席設けるシーンもありました。

ドラマではうまく行かなかったように描かれていましたが、実際には定子の生前から天皇は元子を寵愛していたのです。

元子は定子が敦康親王を産む前、997年に懐妊。しかし、「生まれたのは水だった」という怪事件を起こして以降は、里に引きこもりがちになります。

もしもこのとき、元子が無事に出産して、その子が親王だったなら、一条天皇後宮の勢力図も後継者争いも大きく変わっていたと考えられます。

しかし、結局3人の女御が子を産むことはありませんでした。

◎『源氏物語』と実際の後宮を比べてみたら

ここで、一条天皇や定子、彰子たちが生活した後宮の位置関係を見てみましょう。

左真ん中が天皇の居所「清涼殿」。上部に配された「桐壺」「弘徽殿」などは妃に与えられる局(つぼね)の名前です。

藤壺に局を持つ「藤壺中宮」である彰子は、『源氏物語』の藤壺宮のモデルだともいわれます。たしかに彰子と定子の子・敦康親王(演:池田旭陽)の睦まじい様子は、藤壺宮と光源氏をほうふつとさせますね。

図の通り、藤壺は天皇の寝所である後涼殿からもっとも近い位置です。

定子の局は登華殿もしくは梅壺だったと伝わります。ほかの妃の局と比べると清涼殿からやや離れています。

『源氏物語』の桐壺帝と桐壺更衣(光源氏の両親)は、一条天皇と皇后定子がモデルだといわれます。

(ドラマの一条天皇もそう感じたからこそ、まひろに対して腹を立てたのでしょう)

桐壺の更衣の局である桐壺は内裏の一番端。

「ほかの妃より遠い局を与えられたのに誰よりも愛された」という点でも、定子と桐壺更衣は似ていますね。さらに定子は出家後、内裏を追われてしまいました。

◎「一家三后」どころか「一家一后」すら、ほとんど「無理ゲー」

定子も元子も摂関家に生まれ、一条天皇の寵愛を受けながらも次の天皇の母となることはかないませんでした。

一方で、道長の娘たちは入内して産んだ子が次々と天皇になりました。道長は、三后(皇后・皇太后・太皇太后)が同時に自分の娘で占められる「一家三后」という快挙を成し遂げたのです。

「一家三后」をわかりやすく家系図にしてみました。

太皇太后が一条天皇中宮彰子(長女)、皇太后が三条天皇中宮姸子(次女)、皇后(中宮)が後一条天皇中宮威子(三女)と三后がすべて道長の娘で占められた
太皇太后が一条天皇中宮彰子(長女)、皇太后が三条天皇中宮姸子(次女)、皇后(中宮)が後一条天皇中宮威子(三女)と三后がすべて道長の娘で占められた

これはほとんど奇跡、いやそれ以上のことかもしれません。

そもそも「皇族や摂関家・大臣家など、身分高く生まれる」だけでも奇跡ですが、さらに、娘が産んだ子どもが天皇になるためには

①父が長生きして後ろ盾になる
②年齢の釣り合う天皇(もしくは春宮)に入内
③天皇の寵愛を受ける
④懐妊
⑤無事出産
⑥親王を産む
⑦自分の産んだ親王が天皇に即位(ここまで父は存命)

これだけのハードルがあるのです。

これを3人連続で成すのはもはや「強運」というレベルをとうに超えています。

しかもそれを成し遂げたのが、棚ぼた式に家を継いだ五男の道長だったというのも、運命というものの不思議なのでしょうか。

(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)

◆主要参考文献

紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)

ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)

フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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