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ミハエル・ミキッチが語る、親友ルカ・モドリッチ(ロシア杯MVP)の素顔

木村元彦ジャーナリスト ノンフィクションライター
スピードスターは9年在籍した広島ではその名前から大天使とも呼ばれ愛された。

 W杯ロシア大会のMVPであるゴールデンボールを受賞したのは準優勝のクロアチアを率いたルカ・モドリッチだった。順当であろう。卓抜したテクニックもさることながら、無尽蔵の運動量と巧みなリーダーシップでチームに貢献する姿勢は観る者に大きな感動を与えた。そのモドリッチの大親友が今、Jリーグにいる。

サンフレッチェ広島で9年間プレーし、今年は節目となる10年目を湘南ベルマーレで迎えているミハエル・ミキッチである。ミキッチとモドリッチとの交流はディナモ・ザグレブ時代から今も深く続き、ミカはその縁でサンフレッチュのスタッフをモドリッチの所属するレアルマドリードへ連れて行くなどしている。

年齢は6歳違いであるが、それぞれに華奢な身体ながら、大きな野心でプロキャリアの道筋を切いた。今は湘南の地でベルマーレに献身を捧げるミキッチにモドリッチの素顔とクロアチアサッカーの躍進の要因を入念に語ってもらった。

―そもそもルカ(モドリッチ)との出会いはいつ、どのようなものだったのでしょうか。

「私がドイツ(カイザースラウテルン)からクロアチアに帰って来た2007年、27歳のときです。ディナモにいて彼は20歳くらいだったでしょうか。若いけれど当時から自信に満ち溢れていました。私は練習でそのプレーを一目見て驚きました。

才能のある選手はたくさん見てきたつもりでしたが、別格でした。DF3人に囲まれてもいとも簡単に引き剥がして行くのです。それもやり方はひとつではなく、多くの選択枝を持っていてその状況のベストのチョイスをするのです。上手さとフットボーラーとしてのインテリジェンスを感じました」

―彼の場合はしかし、決して順風なキャリアではありませんでした。10代の頃のモドリッチはほぼ同じポジションにニコ・クラニチャル(現レンジャーズ)がいて、ディナモからボスニアのモスタルにレンタルに出されていたり、クラニチャルの父親が監督であった代表チームでも不遇を囲っていたイメージがありました。当時、ザグレブの記者に聞くと、運動量の少ないニコよりもモドリッチを押す声は大きかったのですが、それだけに彼も悶々としていたのではないでしょうか。

 「当時はニコのパフォーマンスも良かったからです。ニコの方が得点能力はあったと思います。しかし、チームをオーガナイズする能力、試合の流れを読んでコントロールするスキルはルカの方が上だったと思います。とても困難な状況を簡単にすることに長けていました。

何より、そういう心が折れそうなときにも常にポジティブな気持ちで進んできたことが、今の彼を作ったと言えるでしょう。努力の賜物です。

私とチームメイトになったときはまるで地球の外から来た生物のようなプレーを連発していました。またぎのフェイントのキレも凄かったし、その後の一歩、二歩のスピードがとにかく半端ではなかった。一気にそれで相手を置き去りにしていました」

―視野の広さも若い頃からですか。

「そうです。まるで360度のカメラがついているかのように、自分の背後のスペースにも敵と味方、誰がどこにいるかをいつも把握していました。私には忘れられないプレーがあります。2012年の12月だったと思います。ディナモから移籍したトットナムでニューキャッスルとやった試合でのできごとです。味方のスローインのときにルカ・モドリッチは4人に囲まれていました。そんな状況なので私はさすがにまさかルカには投げないだろうと思っていました。

ところが、入れた。あっと言う間にワンフェイク、ターンして4人を引き剥がしてしまった。そこで確信しました。彼は世界のトップに登り詰めていくだろうと。あのシチュエーションではどんな選手でもかわせるのは多くて二人でしょう」

―ディナモ時代に話を戻すと当時は、クゼ(元ガンバ大阪、元ジェフ千葉監督)、イバンコビッチ(元イラン代表監督)と有能な指導者が揃っていました。ルカのあの運動量と動きの質の高さは指導によるものだったのでしょうか。クザはガンバ大阪でも宮本、稲本ら若手を使って成長させることに定評がありました。

「クゼは豪快な人物でしたね。家を買うために一億円貯めたのにそれをギャンブルで倍にしようとして全てスってしまった(笑)二人のキャリアはそんなに重なっていないのですが、確かにクゼはルカを評価していました。

あの走る姿勢に関して言えば彼の生まれ持ったキャラクターです。誰かに教えてもらったものではなく、最初から試合の各急所には必ずどこへでも顔を出すという強い気持ちがあった。

ボールをもらうためには足下ではなくて、走らないといけないということが彼はもう分かっていた。そして木村さんも知ってのとおり、すばらしいのは無駄走りがないこと。質の高さ。ボールを受けた選手が囲まれたら、すぐにサポートに行く。ここでもらっても意味が無いと思えば、その先に動く。

眼の前の打開だけではなく、常にゴールから逆算して動いているのです。ボールをもらったらまず前に出すことを考える。それで詰まったらどうするか、いつもサッカーインテリジェンスを鍛えています。

わがベルマーレにも斉藤未月という選手がいて、とてもよく走ります。彼もルカの動きの質から学んで欲しいと思います。そうすれば未月ももっといい選手になっていくでしょう」

―ルカがトットナムに移籍してから、ディナモと対戦したことがあったと思いますが、相手として見たときはまさにその動きに翻弄されかけたと聞きました。

「はい。ディナモとトットナムとの対戦。そのとき私はベイルとマッチアップしました。ルカに関してはチーム全員が脅威に感じていました。彼は絶対にボールを失わない。そして相手の裏のスペースが空いていたら、すぐにそこを突いてくる。だからディナモのDFラインは彼がボールを持つと絶対に集中を切らさなかったし、私も緊張を強いていました」

―1990年でしたか、ストイコビッチがマルセイユに移籍した後に古巣のレッドスターとチャンピオンズカップの決勝であたったとき、途中から出場してきたピクシーにレッドスターの選手はパニックになりかけたと言ってましたが、それと少し似ていますね(笑)

「ええ、その選手の凄さを一番知っているのが、元チームメイトかもしれません(笑)。そしてルカが残したものも大きかったです。彼がいたときのディナモは紅白戦でも誰もが負けたくないというメンタリティで闘っていました。相手を削るにいくとかそういうのではないですが、とにかく真剣さが尋常ではありませんでした。その世代がクロアチア代表の今の成功をもたらしました。

2006年、ちょうど12年前に今の代表チームの原型が作られました。マンジェキッチ(現ユベントス)、チョルルカ(現ロコモティブ・モスクワ)、ロヴレン(現リバプール)…、2004年のU-21代表から率いたスラベン・ビリッチ監督が世代を持ち上がってA代表にいったのです」

―決勝戦の後に彼はゴールデンボールを受賞するわけですが、まったく嬉しくなさそうでした。

「それこそ、あれが彼のメンタリティーです。自分が受けた最大の評価よりも優勝できなかったという悔しさの方が圧倒的に大きかった。自分がMVPを3回受賞するよりもチームの勝利を願う。自らのチームのためなら自分の名誉などいつでも差し出す。そういう男なのです。

ルカはクラブW杯で来日以来、日本も大好きでキャリアの晩年は日本やアメリカでもプレーしたいと言っていましたが、まだまだヨーロッパは彼を手放さないでしょう」

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ジャーナリスト ノンフィクションライター

中央大学卒。代表作にサッカーと民族問題を巧みに織り交ぜたユーゴサッカー三部作。『誇り』、『悪者見参』、『オシムの言葉』。オシムの言葉は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞、40万部のベストセラーとなった。他に『蹴る群れ』、『争うは本意ならねど』『徳は孤ならず』『橋を架ける者たち』など。

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