プライバシーの終焉 ー個人情報と自己責任ー
本稿は10年前に寄稿した小論である。当時の危惧が今まさに現実の問題となっている。
個人情報の流出にとって大きな問題は、その流出自体ではなく、その流出から導出される個人のプライバシーの漏えいである。さらに複雑化させる要因は、そのプライバシーの真偽に関して何の保障も無く、顕在化することである。
そもそもプライバシーとは空間を共有することに対峙する概念であった。場(社会的空間)を仕切ることによって、自分と自分以外の者に対して、情報量的格差を設ける概念である。かつて高度情報化社会と呼ばれたユビキタス社会では、よく言われるように「空間と時間」を超越した社会であり、この情報量的格差を維持することが非常に困難なのである。
「パノプティコン」という概念がある。哲学者ベンサムが考案した刑務所であり、中央にいる監視者から被監視者すべてを常に監視することができるが、被監視者からは監視されているかどうかはわからず、常に監視されているという意識が内面化し、その結果、矯正を促すというものである。ユビキタス社会での、このパノプティコンに相当するものが、データベースであり、そのデータベースとネットワークを駆使することによって、すべての個人は被監視者、すなわちユビキタス社会の囚人となるのである。マーク・ポスターは、その著書「情報様式論」において、「スーパーパノプティコン」と称している。では、監視者はいったい誰なのか。かつては技術、財力を伴った国家を含む権力を仮定することが常であった。DataveillanceというData Surveillanceからの造語を創ったロジャー・クラークが言うようにデータの収集、解析は比較的容易であり、近年、特にその敷居は低くなってきている。つまり、スーパーパノプティコンという概念に至らぬまでも、すでに現在のネットワーク社会においても、監視者と被監視者、すなわち自分と自分以外という区分が崩れている。誰でもが監視者であり、誰でもが被監視者となるのである。インターネットの掲示板において、誹謗中傷の類が問題となっているが、一夜にして、無名の個人が、その他の無名の個人(監視者)によって、プライバシーを露呈され、有名な個人(被監視者)となることが多々ある。いわゆる、「晒す(祭り)」という行為である。ウイリアム・ボガードは「監視ゲーム」という著書の中で、もはや従来のプライバシーという概念は存在せず、新たにプライバシーを「個人情報へのアクセスをコントロールする権利」と定義している。
このようにユビキタス社会において、プライバシーを守ることは困難であり、その対策として、従来の「プライバシーが侵される」という消極的姿勢から、「プライバシーを守る」という積極的姿勢に転換する必要がある。新たなパノプティコンによる従来のプライバシーの崩壊を積極的に意識し、それを恐れ怯えるだけでなく、必要最小限の個人情報の露出を心がけることが必要である。また、個人情報は増殖することから、自分以外が発した自分の個人情報、あるいは個人情報に至らぬとも、類推される可能性が高い情報に関しては敏感になるべきであろう。ボガードが言うように、個人情報、特に自分の個人情報へのアクセスをコントロールする権利を主張し、それを行使する必要もある。この権利の行使こそ、自己責任であり、侵されざるものである。
本稿は、画像電子学会誌第33巻第3号pp.323-324(2004年5月発行)に掲載された拙稿「プライバシーの終焉と個人情報保護 Is privacy a notoriously vague concept?」を要約したものである。