【富士宮市】勤皇の志士!! 日本の未来のために命を懸けた『駿州赤心隊之碑』があるのを知っていますか?
明治維新時代に勤皇の志士として活躍した『駿州赤心隊』。静岡県の神官を中心に結成され、大宮浅間神社(現在の富士山本宮浅間神社)の大宮司の富士亦八郎が隊長を務めました。
佐幕派の多い地元では「行けば官軍 帰りは仏 どうせ 会津にゃ かなわない」などと馬鹿にされていましたが、徳川慶喜追討軍に加わり江戸までのぼって、彰義隊との戦いにもめざましい働きをみせました。
隊長の富士亦八郎が大宮司を勤めていた富士山本宮浅間神社の境内、湧玉池の脇には駿州赤心隊之碑が、堂々と建っていました。
石碑の下部には赤心隊員の名前が刻まれています。
この石碑は1934年に町民によって建てられたもので、明治維新の激動の時代を勤皇の志士として国家に尽くした駿州赤心隊顕彰の碑と説明書きがされていました。
1867年の大政奉還、その後発令された「王政復古の大号令」によって、江戸時代は終わりを告げました。明治時代の幕を開けです。
第15代将軍徳川慶喜は翌年江戸開城とともに従来の天領を削られ,謹慎を命じられます。その後、慶喜に代わって田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家の相続者となり駿河などに70万石を与えられ、静岡藩が立藩されました。
駿州赤心隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には、駿河へ移住させられた旧幕臣から見れば新政府方についた富士亦八郎は敵方です。富士亦八郎の故郷である大宮では旧幕臣による反発で、テロが絶えなかったといいます。
富士亦八郎の住居、現在の市民文化会館辺り一帯にあった芙蓉館も放火され焼失してしまいました。
1896年、富士亦八郎の願いにより市民文化会館大ホール入口正面に、芙蓉館碑が建てられました。
碑の内容は読めませんでしたが、
大宮司富士亦八郎が東京に移った後、かつて富士氏が住んだ芙蓉館も日に日に荒廃の一途をたどり、その一部は耕地と化し、他は狐狸の巣窟となり、ありし日の面影は消え去ろうとしていた。亦八郎は、こうした先祖伝来の由緒の地が消え去ろうとすることを恐れ、これを永久に残すため、この碑を建てた。
と、記されているそうです。
故郷に帰ることは叶わなかった富士亦八郎は、東京に残り招魂社(現在の靖国神社)の神職となり生涯を終えたそうです。
日本の未来のために命を懸けた『駿州赤心隊』。維新後は優遇された幸せな暮らしをしていたのかと思いましたが、人生の戦いは終わっていなかったようです。
多くの先人たちの想いの上にある現在に感謝しながら、芙蓉館碑を囲むように設置されているベンチに腰かけ、在りし日の芙蓉館を思い描いていました。
駿州赤心隊之碑
富士山本宮浅間大社境内:富士宮市宮町1-1
芙蓉館碑
富士宮市民文化会館大ホール入口:富士宮市宮町14番2号