平安京さんぽシリーズ⑦ 町衆が生み出す賑わい「四条通」を歩く(前編)
四条通は平安京の四条大路にあたる。中世から下京の商業地として栄え、鴨川東は八坂神社の門前町の賑わいから祇園の遊里も形成され、明治44(1911)年の道路拡幅以後は、交通の中心として発展し、デパート、金融機関、商店などが集中する繁華街を形成した。
京都三大祭の一つである祇園祭では、7月17日と24日に山鉾巡行が行われ、四条通が最も脚光を浴びる時期となる。
そんな四条通の散策は、東の突き当りである八坂神社からスタートしよう。西楼門の石段下は、待ち合わせ場所としても歴史を持っており、幕末に新選組が池田屋事変を起こした際にも、こちらが集合場所となった。
八坂神社の創建については諸説あるが、八坂氏がスサノオノミコトを祀ったことに始まると伝えられている。以来、例祭である祇園祭で知られるように、病除け、厄除けの神として崇敬されてきた。
門前の花街「祇園」は、江戸初期に八坂神社の門前で水茶屋営業を行ったのを始まりとし、以後多くの茶屋が建ち並び、京都を代表する花街として現在に至っている。
四条大橋の手前南側には仲源寺がひっそりと佇んでいる。鴨川が頻繁に氾濫することから、祀られている地蔵尊は「雨止(あめやみ)地蔵」と呼ばれて崇敬を集めていたが、室町時代の頃、「雨止」が転じて「目疾(めやみ)」と呼ばれるようになり、現在まで眼病に霊験がある目疾地蔵として庶民の厚い信仰を集めている。
さらに四条大橋の東詰め南側には南座が大きな存在感を放っている。江戸初期からの伝統をもつ日本最古の劇場で、かつて四条河原にあった幕府公認の七座の一つだ。建物は昭和4(1929)年に建てられた鉄筋コンクリート製ながら登録有形文化財に指定されており、12月には顔見世興行が行われ、正面に掲げられる「まねき」とともに、師走の風物詩として人気を呼んでいる。
四条大橋を渡ると北側には五花街の一つである先斗町が広がり、河原町通を横切ると北側に延びる新京極通には、入口に染殿地蔵が祀られている。平安中期、文徳天皇の后で、父良房の邸宅であった「染殿」に住んでいたため「染殿后」と呼ばれていた藤原明子は、こちらの地蔵尊にお参りし、後の清和天皇を授かったことから、現在も安産祈願の信仰を集めている。
新京極通の入口の向かい側には八坂神社の御旅所がある、普段は京土産等を販売する物産店になっているが、祇園祭の時期は神輿が鎮座する大事な場所へと様変わりする。
そしてここから西へ進むと祇園祭で脚光を浴びる山鉾町が続く。先頭を進む長刀鉾から始まり、四条通には函谷鉾、月鉾、郭巨山、四条傘鉾が前祭で立ち並ぶ。
またこのエリアは「田の字地区」と呼ばれ、平安京以来の区画を保持している。そのため路地が多いのも特徴で、代表例としては新町通と西洞院通の間を南側に延びる「膏薬図子」が挙げられる。
かつて関東で兵乱を起こした平将門は、天慶3(940)年、藤原秀郷や平貞盛らに討たれ、その首は京都に送られてこの地で晒された。この事件以降、全国で天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業と囁かれたため、空也がもともとあった道場の一角に塚を建てて供養をしたことから、人びとは「空也供養の道場」と呼び、この「クウヤクヨウ」が、長い年月のなかでいつしか「コウヤク」に転じて「膏薬図子」と呼ばれるようになったとされている。
今年はこの図子の入口にある郭巨山の町会所に注目が集まった。昨年リニューアルされた建物で、日本建築学会賞を受賞している。会所内を通り抜けしてご神体や会所飾りを見学できるので、来年はぜひ訪ねてみて欲しい。