【川崎市幸区・須摩修一さん】川崎と南相馬を繋いで10年、節目の年に子どもたちに伝えたいこと
明日は3月11日。
10年前のあの日を境に、人生が変わった人もいるだろうと思います。直接的な影響はなくても、少しだけ人生の軌道が変わった、という人もいます。
私がいま川崎でやっているKATARIBE JAPANという活動は、特に震災のことを語り継ぐという目的で集まったわけではありません。けれども、震災がなかったら決して今こうして一緒に活動していなかったと思うのです。それは、一人の男性のある活動から始まりました。
今日は、KATARIBE JAPANの屋台骨を支える「映像語り部」であり、私たち3人のパフォーマーををつないでくれた須摩修一さんに話を聞きます。
「対話をしたいサラリーマン」だった須摩さん
須摩修一さんは2009年、53歳の時に定年を待たずに靴下メーカーを退職しました。人生でやりたかったことをやる、と決めて「2年間遊んだ」と言います。「奥さんにはもちろん怒られました。でも、できた時間を使って一緒に旅行をするようになって、今は『人生って楽しいね』と言ってくれるようになりました。」
旅行で訪れたアメリカで、大型バスの運転手さんが軽妙に喋りながら案内をしてくれるのに憧れ、いつかこういうことができたら、と大型二種の免許をとります。
ですが、会社を退職して地域にいるようになると、何も地域のことを知らない、友達もいないことに気がつきました。何か地域で活動をしなければと思い立ち、地域活動センターを訪れ、会社員時代の経験を生かして「対話のススメ」という講座を持ったそうです。
「会社員時代から、対話が何より大切だと思っていたけれど、組織の中では人はフラットな対話をしないから。立場に縛られて、人の話を対等な目線で聞くっていうシンプルなことが出来ないんだよね」と笑います。
その活動の中で、個人の「ストーリーテリング」を記録する映像を作りたい、という人と出会って意気投合。対話力を生かしインタビューをして映像を制作する「デジタルストーリーテリング」という活動を始めます。
実際に見てみなければ、わからない
そこに、あの3月11日がやってきました。「その時自分は旅行でアメリカにいた。だからあの揺れも体験していない」という須摩さんは、被災地でボランティアをしてきた人たちとワークショップを行い、その体験を綴る記録映像に着手しました。けれども、自分が見ていないものを伝える映像を創るのは難しかった、と言います。須摩さんたちは、5月の末に実際に被災地を訪れて、生々しい震災の傷痕を目の当たりにしました。
自分たちにできることを模索しながら、被災地の人が現状を発表するフォーラムに参加した時、南相馬で林業を営んでいた箱崎さんに出会います。箱崎さんと「対話」を重ねて友人になった須摩さんは10月に南相馬の原町区に行って映像を作りました。箱崎さんの声掛けで、現地の小学生、社協の人、保健師さんなどが話をしてくれて、それを記録に残しました。
たくさんの人と「対話」をした須摩さんにとって、そこはもう「被災地」ではなく、友人たちの住む大切な場所になっていました。
南相馬ツアーを開始
震災後、一年以上が経過してもなかなか復興が進まない現地のために何かしたい、という須摩さんに箱崎さんが伝えたのは「一人でも多くの人を連れて、現状を見にきてほしい」という一言でした。自分で見て、知ることでしか伝えることができない、ということを痛感していた須摩さんは、今こそ憧れて取得した大型二種の免許を生かす時だ、と一念発起。バスを運転して、関東から南相馬に知人を連れて行く「ツアー」を始めます。
2012年8月に最初のツアーを行い、20人の友人を連れて行きました。依然として残る爪痕から、津波の威力を感じた参加者はみんな呆然としていたそうです。そして、須摩さんがバスを出すたびに、自分の友人にも体験してほしいから、と知人を連れてリピートするようになりました。
そして、この10年間でツアーをした回数は、なんと57回!!すごい!
のべ850人が参加したのだということです。
特に印象に残った回はありますか?と尋ねると、どれも印象深かった、と振り返りながらも、
「2017年かな、上丸子小学校の親子が10組参加した回があったんです。まだ小さい子どもたちに、津波の爪痕や、原発の20キロ圏のライン近くまで見学させるのはどうかな、と思っていたんですが、参加した親御さんたちはみんな『子どもに見せてほしい』と言ってくれた。次の世代を担う子どもたちに伝えていくことの意味や、その大切さについて改めて考えました」と話してくれました。
今年で一区切り
昨年は、コロナ禍で予定していた南相馬へのツアーもほとんど行えず、3月に一度行ったきりになりました。(本来は、そのうちの一回でKATARIBE JAPANの公演も予定していたのですが、実現できずに残念でした。)そして、須摩さんが「区切り」としていた10年めがやってきました。
「バスを運転するということは、人の命を預かること。だからツアーで人を乗せていくのは65歳までと決めていた」という須摩さん。この3月の誕生日で、その節目を迎えます。
今年は4月と8月の2回ツアーを行い、8月が須摩さんの最後のツアーになるということです。今までの集大成になるようなルートを考えているとのことなので、きっとまた多くの人の心と人生を動かす旅となるのでしょう。私も参加したいところなのですが、既に多くの申し込みがあるそうなので、リピーターの方や、この記事を読んでどうしても参加したい、と思ってくださった方に席をお譲りしたいと思います。
この10年、多くの人を乗せた須摩さんのバスの中では、さまざまな出会いがありました。
このツアーで知り合った男女が結婚をして、今はお父さんとお母さんになっていたり、福島出身の語り部と川崎のダンサーの運命的な出会いがあったり、須摩さんのツアーは、それぞれの人の心に南相馬の景色と、それを共に見た人同士の絆をしっかりと残しました。
須摩さんのこの活動のおかげで、私もKATARIBEの二人と出会うことができ、伝えていくということの大切さを考えるようになりました。本当にありがとうございます。
差別のない未来を見据えて
もちろん、ツアーをやめるからといって、須摩さんの南相馬との関係や活動が終わるわけではありません。
「2014年に、南相馬で斎藤実さんという理学博士と出会いました。南相馬サイエンス・ラボというのをやっているんですが、この博士の話がめっぽうわかりやすくて、面白かった。自分もこんな先生に出会っていれば、もっと科学を好きになれたなあ、と思いました。この経験を川崎の子ども達にもしてほしくて、斎藤博士を川崎の小学校に呼んできて、南相馬の今の話をしながら、科学のレクチャーをしてもらっています。今後はこの活動に力を入れていきたい。」
先入観を持たない子どもたちが、真っ直ぐに被災地を見つめていた姿が、須摩さんの心に新たな目標をもたらすきっかけになったのかもしれないですね。
「生まれたところや、持って生まれた身体、みんな違っているのが当たり前だし、違っているのがいいんだってことを子どもたちが実感できるような世の中にしたい。差別やいじめは間違ってる、ってことを子どもたちに伝えられるような活動をしたい」と話していた須摩さんの、子どものように光る瞳が印象的でした。未来の光を見つめているから、あんなに眼差しが美しいのでしょうか。
齋藤博士のレクチャーは、川崎市の6区の学校で既に実施されていますが、須摩さんの地元である幸区の小学校だけは、まだ実施実績がない、とのことなので、幸区の先生や、PTA関係の方で面白そうだな、と思ってくれた人は、校長先生にこの記事をぜひご紹介くださいね!