生涯無傷の神将!徳川家康の危機を救った英雄「本多忠勝」のエピソード紹介
本多忠勝は、戦国末期〜江戸前期にかけて活躍した戦国大名です。
「酒井忠次」「榊原康政」「井伊直政」の三名同様、徳川四天王のひとりとして徳川家康を支えました。
忠勝は、生涯57回の合戦に身を投じて無傷での帰還。そのほか、桶狭間の戦いや伊賀越えで主君・徳川家康の危機を救い、関ヶ原の戦いでは東軍(家康軍)の主力として猛威を奮った名将です。
今回は、そんな「本多忠勝」にまつわるエピソードを紹介します。
「単細胞か、最強か…無謀を単騎で解決」
1570年、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍と激突。兵力差で戦況を優位に保っていた織田・徳川連合軍でしたが、浅井・朝倉連合軍の戦術に翻弄され、本陣目前にまで侵攻を許してしまいます。
織田・徳川連合軍の敗走待ったなしと思われた最中、本多忠勝だけは諦めていませんでした。
彼は戦況を変える突破口を作るため、一万の朝倉軍に対して単騎で突撃(単騎駆け)。忠勝の勇姿に感化された徳川軍の士気は最高潮に到達し、殿を討たせまいと最後の抵抗をみせたのです。
忠勝率いる徳川軍と朝倉軍の実力が拮抗するなか、勝敗の行方を決めたのは徳川四天王・榊原康政が率いる遊撃部隊の登場でした。
陣形を崩し、指揮系統の狂った朝倉軍は崩壊。織田・徳川連合軍は、この「姉川の戦い」で逆転勝利を果たしたのです。
「最強の最弱すぎる最後」
参戦した57回の合戦を無傷で生還した本多忠勝は、まさに戦国最強の武将だといえるでしょう。
戦場では最後まで諦めず猛威を奮った忠勝でしたが、亡くなる数日前に小刀で小指を怪我したときには、「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたのでした。
そして、この言葉の通り数日後に彼は亡くなったとされています。
もしかしたら忠勝は亡くなる数日前、体の衰えを感じ、合戦ばかりの人生に疲れて弱気になってしまったのかもしれません。
死因については定かではありませんが、その死に際は想像もできないほどあっけないものだったとされています。
最後まで弱音を吐かず、諦めなければ、本多忠勝も長生きできたのでしょうか。
戦場では猛威を奮ったとされる忠勝がふとしたときに見せたその弱さは、武将という存在を身近に、そして魅力的に感じさせてくれる人間臭さのひとつなのかもしれません。