“赤土の王”ラファエル・ナダルの郷里に生まれた芝のコート マヨルカ・オープンってこんな大会
空は光を跳ね返すように碧く、海は緑がかった深い青で、ビーチは目の裏が痛くなるほどに白く輝くーー。
なんだか稚拙でのう天気な物言いになってしまったが、6月のマヨルカ島は何もかもが原色で眩しくビビッドで、曖昧さを許さないエネルギーに満ちている。
「まるでパラダイスでしょ!」
マヨルカ・オープンのオペレーションディレクターを務めるフェリックス・トラルバ氏は、この島に相応しい明るい笑顔と、良く通る声で言った。
マヨルカ・オープンは、2年前からこの島に誕生したWTA(女子テニス)ツアー大会。トーナメントディレクターは、この島の英雄ラファエル・ナダルの叔父にして、長年のコーチでもあったトニー・ナダルである。大会の格付けは“インターナショナル”というツアーで最も下のカテゴリーだが、トニーの人脈と「パラダイス」な環境がモノを言うのか、毎年、豪華な面々が顔を揃えることでも有名だ。
もっとも選手にとって何にも増して重要なのは、ここが“芝”のコートであることだろう。ウィンブルドンの開幕を2週間後に控えたこの時期、選手たちは日頃プレーの機会が少ない芝で、少しでも多くボールを打ちたいと願っている。だからこそ雨の少ないこの大会は、練習場という意味でも選手にとってうま味が大きい。そんな芝のコートを“パラダイス”に生み出すのは、なかなかに多くの困難を伴うミッションなのだと、トラルバ氏は言った。
「ここは、最も緯度の低い……最も赤道に近い場所で開催されている芝の大会です。地中海性気候のもとで芝を良好な状態に維持するのは、とても大きなチャレンジなんですよ」
短く刈り揃えられた芝を長期維持するには、熱はもちろん敵となる。定期的に水分を要するため、乾燥も当然避けたい。テニスを楽しむに最適な気候は、芝にとっては天敵というパラドックスだ。
だからこそ「時には、練習機会を乞う選手たちに冷たく応じなくてはならないんです」と、トラルバ氏は顔をしかめた。選手がコートを連続使用できる時間は、基本は最長60分。それでも「今日は45分で切り上げてほしい」「コート1からコート2に移ってくれ」と頼まなくてはいけないことがあるという。
「実は僕も、コート使用に関する決定権はありません。何しろ芝は生き物なので、気温や湿度で状態が変わり、それに応じて水を撒く量や時間、カバーを掛けるタイミングなどが決まります。それを判断するのは、我々ではなく“グランドキーパー”。コートの管理に関しては、彼らに全てを委ねています」。
こと芝に関しては、テニスのエキスパートたちですら門外漢。その繊細な「生き物」を扱う上で大会関係者たちも頼りにするのが、ウィンブルドンのコートを管理するグランドキーパーたちの存在だ。
■コート制作の背後にはウィンブルドンのノウハウが■
トラルバ氏を含めるマヨルカ・オープンのプロモーターたちは、その前週に開催される男子のシュツットガルト・オープンも運営している。この大会は3年前にクレーから芝へとサーフェスを変え、その際にウィンブルドンと提携することで、芝の種から育成・管理方法に至るまで、“テニスの聖地”のノウハウを取り入れた。
“ウィンブルドンと同じコート”を謳い文句に生まれ変わった2015年シュツットガルト・オープンで、頂点に立ったのはナダル。だから……という訳ではないだろうが、この年、同プロモーターたちの間で「次はマヨルカ島で芝の大会を」との大胆なプロジェクトが立ち上がった。シュツットガルトの経験を持ち込み、ウィンブルドンのグランドキーパーたちに幾度も島に足を運んでもらい、試行錯誤を繰り返しながら「これなら行ける」との手応えを得たことで、2016年にマヨルカ・オープンが誕生する。第1回目大会のアンバサダーはトニー・ナダル。翌年からは、彼がトーナメントディレクターに就任した。
“最も赤道に近い芝のコート”を地中海の島に持つことは、郷里の英雄にとっても大きな利点となっている。大会会場から車で1時間ほどの町に住むナダルは、自らハンドルを握り、毎日のように会場を訪れては練習をしているからだ。全仏で優勝したばかりのナダルは、故郷でしばし身体と心を休めながら、ウィンブルドンに備えられる訳である。
マヨルカ・オープン初日の午前中、そのナダルが会場を訪れ、約2時間練習に汗を流した。ただ少々驚いたのは、彼の練習コートにはもちろんギャラリーが集まったものの、それほどの数ではなかったこと。ナダルが会場にやってくることは、地元のラジオで繰り返し流れていたとタクシーの運転手が教えてくれたので、恐らくは大会を見にきた人々の多くが知っていたことだろう。それでも、大会の主役たる女子選手たちの試合観戦を放棄してまで、ナダルの練習に張り付いている観客はほとんど居なかった。むしろ色めき立っていたのは、大きなカメラを抱えた報道陣の方である。
練習が終わった時には、多くのファンがナダルにサインと写真を求めたが、彼が格好ばかりのセキュリティに守られ駐車場へと歩いて行く時には、皆その背に熱い声援と視線を送るのみで追ってくる者は見られない。
上半身裸のまま、赤いコンバーティブルのスポーツカーに一人乗り込む赤土の王の姿を見ながら、彼が、例え数日でもオフがあればこの島に戻りたいと願う想いに、少し触れられたように思った。この島での彼は、今でもスーパースターではなく、テニスが大好きな青年のままで居られるのだろう。
「この島では、彼が居ることはノーマルでナチュラルなんだよ」
島でナダルのことを尋ねるたび、ホテルやレストランの従業員、タクシーの運転手たちは声を揃えた。
ナダルがハンドルを握り、スポーツカーのエンジンに火を入れる。
慎重に慎重に……後方に人が居ないことを確認しながら、赤い車体がゆっくりと下っていく。そして十分に後退すると、これまた丁寧な足取りで方向を変え、太陽の光を跳ね返しながら、心地良い低音を響かせのんびりと駐車場を後にした。