不屈の野球人生を歩む知念広弥。台湾プロ野球に続くステージは日本の社会人野球
苦しくても常に前向きに
ドッチボールをやっていて肩の強さを褒められたことから始まった知念広弥(こうや)の野球人生は、沖縄、岡山、石川、福岡、新潟、台湾、あらゆる場所で苦労と収穫を手に入れた。気づけば今年の12月で30歳になるまで続いてきた。
出身は沖縄県那覇市。高良カープで軟式野球を始めると、中学時代はフレッシュリーグ(九州硬式少年野球協会)の沖縄ダイヤモンドクラブで3位に。高校はさらなるレベルアップを求めて、岡山県浅口市にあるおかやま山陽高校に入学した。
すると2年時から頭角を現す。ほぼストレートだけで三振を量産するなど、県内で圧巻の投球を見せはじめた。またその春から就任していた堤尚彦監督は「人間が凄まじく良かった。マウンド行ったらスイッチ入りますけど、下りたらニコニコしているし苦しい練習が大好き」と知念の印象をそう振り返る。
一方で、その向上心が仇となった。2年の冬場にさらなる高みを求めてフォームを模索するうちに、フォームを見失ってしまい球速は120キロほどにまで低下。堤監督も自らの人脈も生かしてあらゆる手段を講じてみたが、調子が戻らないまま卒業。堤監督の紹介で進んだ金沢学院大学でも苦境をなかなか脱することはできずに、3年間公式戦登板はほぼ無かった。
学業に専念するか、マネージャーや学生コーチに転身する選択肢もあったはずだ。しかし、知念にその発想は一切なかった。それを誰よりも知るのが、現在の妻であるみなみさんだ。
同じ大学のトランポリン部に所属していた縁で知り合った。当時は知念が最も苦しんでいた時期だが「負のオーラをまったく感じさせなかったので、そんな状況とは知りませんでした。むしろ前向きに這い上がろうという姿にビビッときたくらいです」と笑って振り返る。
全体練習が終わった後に黙々とネットスローを繰り返すなど長い試行錯誤の中で、ようやく知念はきっかけを掴む。
「良かった時のフォームに戻すのではなく、新しいフォームにしよう」と開き直ってテイクバックを変えてみたところ、それが上手くハマった。4年春にようやくチームの中心投手となると、北陸大学リーグの春季だけで4勝を挙げるなど活躍。社会人野球の九州三菱自動車からも能力を評価され、内定を勝ち取った。
年齢の壁
社会人野球で結果はなかなか伴わなかった。1年目こそ都市対抗出場を果たしたが、以降はチームも知念も躍進することは無かった。一方で、試合後の午後から行っていた社業では、パジェロなどを持ち前の明るさや人柄の良さでどんどんと売り上げていき、社内で2度も表彰されるほどだった。野球がダメでも、そのまま会社に残れば、安定かつ華やかな道はあったかもしれない。
ただ、知念はプロ野球選手になることを諦めなかった。4年目の秋に退社を決意。DeNAと巨人の入団テストを受験し、不合格だったが独立リーグのルートインBCリーグに所属する新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの目に留まり入団。
社会人3年目から何か特徴をつけようとサイドスローにしていたが、赤堀元之監督(当時/現中日投手コーチ)にオーバースローに戻すことを勧められると1年目の7月に自己最速を5キロも上回る147キロ、9月にはついに大台の150キロを計測した。しかしドラフト会議では指名漏れ。自身よりも若い選手は指名されただけに、NPB側にある年齢の壁を感じた。2年目は開幕投手を任されるまでになったが、左ひじを痛め、それを庇っているうちに他の箇所にも負担が生じてしまい成績は低下し登板間隔も空いた。シーズン後半戦には持ち直し、148キロを計測するまで戻ったが、またもやドラフトは指名漏れに終わった。
当時を知る辻和宏総合営業部長兼編成部長もまた知念のひたむきな姿勢に舌を巻く1人だ。
「とにかく野球小僧。まっすぐでありとあらゆるものを取り入れようとしていました。何か吸収しようという意欲は人の二倍、三倍はあると思います」
そしてさらなる高みを求めて、2018年からは台湾へ飛んだ。
異国・台湾で得た新たな気づき
「技術は進歩している」という手応えがあったからこそ「引退」の選択肢は無かった。新潟の2年目に指導を受けた加藤博人前監督(現日立製作所コーチ)が関係者をあたってくれ、3月末にようやく統一ライオンズから合格の通知をもらった。立場は「第4の外国人」。一軍の外国人登録枠「3」(同時出場2人)が空くまでは、ひたすら二軍で生き残りをかけて投げ続けた。
その中で掴んだ新たな感覚もあった。これまでは高い向上心ゆえに休むことに抵抗があったが、台湾のコーチは休むように厳命。仕方なく定期的に休養日を作ると、状態が上がってきた。「“休む勇気”をもらいました」と知念は振り返る。
8月には二軍で自己最速の152キロを計測すると、8月22日に一軍デビュー。先発し4回途中までは犠飛による1失点のみに抑えていたが、4回3分の2を投げて7失点を喫すると、翌週の挽回の機会は雨で流れた。その間にチームは新外国人投手を獲得。知念は解雇された。それでも能力や姿勢を買っていたチームからは、2019年の契約も提案され、昨年から今年にかけてのオフは初めて「プロ野球選手」として臨むことになった。
イチローや山本昌らが取り入れていた初動負荷トレーニングを行うなど「自分のためにできることは全部やってみよう」と精力的に過ごした。今季はリリーフとして開幕から150キロを超えるストレートを次々と投げ込んでいった。3月29日にはプロ初勝利を手にした。台湾プロ野球での日本人投手の勝利は2014年正田樹(現愛媛マンダリンパイレーツ)以来5年ぶりだった。
ただ、変化球をより打者の手元で変化させるために肘を上げたところ、持ち味であった伸びが無くなり、痛打される場面が多くなった。当然その課題を認識し修正。二軍で調子を取り戻した矢先、チームの先発投手陣の状況が芳しくないため、リリーフとして起用されていた外国人枠選手の知念は5月上旬に再び解雇された。
不器用だからこそ
それでも、まるで当たり前のように知念の中で「引退」という選択肢は無かった。5月末の浪人状態の際に「ここまで野球を続けられるのはなぜ?」と率直な疑問をぶつけてみた。すると、返ってきたのは驚くほど清々しい答えだった。
「うーん、なんでですかね?辞めるという発想になったことがないんですよね」と、普段と変わらぬ柔和な表情で笑い飛ばした。
そして、試行錯誤をしながらも、不器用ながらも、前を向き続けたからこそ、今の自分があることは胸を張って言える。
「いろんなところで野球をさせてもらいました。もし僕が器用な人間であればすぐに力を発揮できたかもしれません。でも野球を辞めなかったから、ここまで成長し続けられたんだと思います」
8月1日。知念から連絡があった。社会人野球の強豪、日立製作所への入社が決まり合流するといった旨だった。目の前の目標は当然「都市対抗出場、日本選手権出場」と話した。加えて、飽くなき向上心をさらに燃やしてもいるようだった。
「日立製作所のような素晴らしい企業に入社できて本当に嬉しいです。ですが入社できたからと満足した時点で成長は止まると思います。現役を続けるのであれば上を目指し続けることは必要なことだと思っています」
そして、その背中を押す人間は全国各地、海の向こうに多くいる。彼を知る者たちの語る言葉からもそれは証明されている。
どこにいても、どんな状況に置かれても「もっと上手くなりたい」という野球を始めた少年時代と変わらぬ向上心で、知念は誰のものでもない野球人生を歩み続けている。
文=高木遊