「1000安打達成は家内に助けられました」大引啓次が語る引退の経緯、そして現役生活の思い出【後編】
オリックス・バファローズ、北海道日本ハムファイターズ、東京ヤクルトスワローズと、13年間におよんだ現役生活に昨年限りで別れを告げた大引啓次(35歳)。その大引には、プロ野球人生の中で3つの大きな思い出があるという。2007年のプロ初安打、2015年のセ・リーグ優勝。そして、昨年8月に達成した通算1000安打である。
「なんなら2018年シーズン中に辞めるつもりでいた」
「(1000安打を)達成できたのは家族のおかげだと思います。僕が独身やったら、(1年前に)辞めてたと思いますよ」
大引がそう話すのにはわけがある。少年野球で肩を痛め、中学から野手に専念してからというもの、高校、大学、プロと一貫してショートを守ってきた。「キャッチャーと同じ、特殊なポジション。誰でも守れるわけじゃない」というそのポジションに、人一倍強いプライドを持っていた。それだけに故障で出遅れた2018年、一軍昇格を機にサードで起用されるようになったのは「ショックでした」と振り返る。
「『わかりました』って言って、それでズルズル行ってしまったっていうのは僕にも責任があるんですけど……。これがたとえば誰かと競って(ポジションを)獲られたなら、僕は何の未練もないというか、そこは仕方ないんですよ。競わずして譲った形になったのがすごい嫌で。だからもういつ辞めてもいいっていうか、なんなら(2018年の)シーズン中に辞めるつもりでいたんです」
当時、どこか虚ろな目で「こんなことをダラダラ続けていても、何の意味もないです」と話していたのを、筆者もよく覚えている。そんな大引の気持ちを変えたのが、夫人の言葉だったという。
「家内に自分の気持ちを打ち明けた時に、てっきり『あなたがそう言うんだったら辞めれば』って言うもんだと思ってたんですよ。そしたらなんか『うーん』って考えこんで。イエスでもノーでもなく、『好きなようにしたら』とか『もっと続けなさいよ』って言うわけでもなく……。今思えばあの答えで助かったというか、まあ本当に辞める勇気もなかったかもしれないですけど、あれがあったおかげで1000本も達成できたと思います、間違いなく」
このシーズン、そこからバッティングの調子を上げた大引は、交流戦では開幕から8試合で打率.440(25打数11安打)と打ちまくった。直後にケガで離脱するも復帰後も安打を重ね、終わってみれば出場はプロ入り後最少の47試合ながら、打率.350(123打数43安打)をマークした。
「あれで(1000本まで)残り20本で2019年シーズンを迎えることになったんですよ。あれが残り50本だったら『もういいかな』って思ったかもしれないですけど、もう目の前だという気持ちになったんで、(現役を)続ける上での1つの気力になったかなと思います」
「サードは最後まで慣れずじまいでした(苦笑)」
ただし、オリックス時代に2試合、日本ハムでも10試合しか経験のなかったサードの守備には、最後まで苦労したという。打者との距離感、打球への反応、ショートでは無縁だったアンツーカーでのバウンド……。キャッチャーのサインとピッチャーの投球を見ながらある程度、打球を予測できるショートと、ピッチャーの投球までは目で追うことができないサードの違いもある。
「本当に難しいんですよね、サードって。あれがたとえばレギュラーで、スタメンからずっと出てれば初回から慣れていけますけど……。守って当たり前の終盤の大事な場面で(守備固めに)行かされて、首脳陣とかファンも『大引が行くんだったら安心だろう』と思われがちですけど、『僕はサードでは素人なんですよ』って。あれはやっぱり慣れるまでに時間がかかるし、結局は慣れずじまいで終わっちゃいましたけど(苦笑)」
さまざまな葛藤や苦悩がありながらも、昨年8月23日の阪神タイガース戦(神宮)で、観戦に訪れた家族の目の前でプロ野球史上302人目の通算1000安打を達成。ところが9月3日に連盟表彰を受けると、翌日の試合を最後に登録を抹消されてしまう。結果的にこの記録達成を花道に、ユニフォームを脱ぐことになった。
「1つ残念なのは上の子(長女)が今年で4歳になるんですけど、そこまでやったらひょっとしたら大人になっても覚えてくれてたかなぁって。そこは少し残念ですけど、そこぐらいじゃないですか。13年やれましたし、優勝もできましたし、1000本も打てましたし。幸せな野球人生? それは間違いないですね。これ以上を望んだらバチが当たります(笑)」
今後は「大学院で指導者としての土台づくりができれば」
選手としての野球人生は終わりを告げたが、これからも野球と縁を切るつもりはない。昨年12月には学生野球資格回復制度研修を受講。アマチュア球界での指導も視野に入れながら、まずは指導者としての土台づくりを始める。
「もし僕がコーチになったとしたら、今度は僕じゃなくて選手が主役です。彼らが育つためには、やっぱり人それぞれ個性があって、選手によってハマる教えもあれば、そうでないものもある。そのために指導の引き出しっていうのをつくっておきたいし、勉強をしたいなと。こういう選手にはこういう教え方をするのがいいとか、それは技術の面なのか性格の面なのか、そういうところも見ていかないといけないと思います。その土台を、大学院に行くなりしてできればいいなと思ってます」
指導者としての“プロ”を目指すためにも、必要なのはまずは学ぶこと。そのために、今はどこで何を学ぶべきかを模索しているところだという。
「いろんな方にお会いして、どういう大学でどういう勉強がしたいのかとか、どういう論文を書きたいのかっていうところを突き詰めていって、最後は大学で選ぶというよりは、自分と似ている感覚の教授の下で学ぶのが一番かなと思ってます」
その後にどういう道が待っているのか、今はまだわからない。だが、そこから先にはさらに壮大な夢がある。
「この年齢になっても夢って持っていいと思ってるので……笑ってもらっていいんですけど、いつかはメジャー(リーグ)の監督になってやろうとかね。あくまで夢ですよ。でも、どうせやるなら誰もやったことのないことをやりたいですし、僕はちょっとヘソが曲がってるんで(笑)他人と同じことをやってもねって。実際はだいぶ手前で着地するんでしょうけど、そう思うことで自分の理想に近づけるというか……初めからここでいいやと思ったら、そこで終わっちゃうんでね」
壮大な夢にどこまで近づけるかはわからないが、今後も野球に携わり、指導者の“プロ”になるためにも、まずは学び舎でしっかりとした土台をつくる。それが大引の第2の野球人生のスタート地点になりそうだ。
(【前編】はこちら)