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志半ばで引退した父と、その意志を受け継いで騎手デビューした息子の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
横山義行元騎手(左)と藤沢和雄元調教師

競馬とは無縁の家庭からトップ騎手へ

 名騎手の父・横山典弘と、いずれもGⅠジョッキーとなったその子息の和生と武史。しかし、競馬界に於ける横山親子は、彼等だけではない。

 先週の競馬で2勝を挙げた横山琉人。彼の父はかつて「障害界になくてはならない存在」とまで言われた男。

 横山義行だ。

 1974年3月19日、静岡県の出身。実家は自営業で、馬とは無縁の家庭だった。

 「競馬には全く興味がなかったけど、ある日、競馬学校を取り上げるテレビ番組を父がたまたまみて、自分に勧めてきました」

 正直「嫌だった」が、あまりにも父が勧めて来るので、とりあえず受験した。

 「どうせ受からないと思って受けたら、受かってしまいました。こうなったら行くしかないですよね」

現在の横山義行元騎手
現在の横山義行元騎手

 1992年に騎手デビューすると、関東の新人では最多となる20勝をマークした。

 「加賀武見厩舎からデビューしたのですが、先生は厳しい反面、レースには率先して乗せてくれました。他厩舎も紹介してくださるなど、バックアップもしてもらえたので勝つ事が出来ました」

 6年所属した後、フリーになった。そして、それを境に障害レースに本格参戦するようになった。するとすぐにビクトリーアップで中山大障害(秋)を優勝。自身初となる重賞制覇だった。

 「捕まっていたら馬が勝手に走ってくれました。『あ!勝っちゃった』っていう感じでした」

 その後、2000、01年と中山グランドジャンプ連覇をするなど、当時、障害界を無双したゴーカイと出合った。

 「郷原(洋行)先生にはよく乗せてもらえました。ゴーカイも前々から声をかけてもらえていて、なかなかタイミングが合わなかったのですが、乗れた途端に重賞を勝たせてもらえました。普段は普通の感じなのに、レースへ行くとスタミナがあって飛越も上手。クセのない乗りやすい馬でした」

 ゴーカイが引退後も自身の成績に陰りはなく、05年には13勝を挙げ障害リーディングに輝く等、障害界に横山義行アリという存在になった。

 「良い馬に乗せてもらえ、勝つと障害の先輩騎手からもまた良い馬を回してもらえる。良い流れでした」

 3人の子宝にも恵まれたが、唯一競馬に興味を持った次男の琉人が生まれたのもこの頃だった。

 「長男は競馬に興味を示さなかったけど、琉人は小さい頃から競馬場も来たし、テレビでも観戦していました」

 琉人が8歳になった2011年の事だった。義行は平地と障害、両方で100勝という偉業を達成した。

 「障害の100勝は目標にしていました。怪我が多く、1年間フルで参戦出来る事がなかった中で、何とか達成出来ました」

落馬で引退

 「落ちる度に骨折してしまう」と嘆く中、ついに人生を変える大きな事故に見舞われた。15年1月11日の中山競馬、障害未勝利戦でニシノゲイナーに騎乗。正面スタンド前の水濠飛越後、バランスを崩し落馬。そこへ後続馬が突っ込んできた。

 「返し馬までしか記憶がありません。ああいう落ち方だったのは、後からレースのVTRを見て知りました」

 結局その後、現在に至るまで、当時の記憶が呼び戻される事はなかった。

 「落ちた時の衝撃で首をやられ、2日くらい意識が戻らなかったのが原因だと思います」

 頸髄損傷。

 少し打ちどころが違えば命を落としていてもおかしくないほどの大怪我だった。

 「1ヶ月後くらいに転院したけど、その間の記憶はほとんどありません。『もう歩けるようにはならない』と言われたようで、しばらく車椅子に乗っていたみたいです」

 記憶が曖昧だから、まるで他人事のように当時を述懐する。

 「2軒目の病院で半年ほどリハビリをしました。お陰で何とか歩けるようにはなったけど、退院後も通院しながらリハビリは続きました」

 そうこうするうち1年が過ぎた。しかし、足に力が入らず、普通に歩行をするのも困難だった。

 「さすがに騎手復帰は難しいと思わざるをえませんでした」

 そこで調教師試験の受験を考えた。すると、手を差し伸べてくれる人が現れた。

 「現在は引退されたけど、藤沢和雄調教師が助けてくれました。僕は調教にも乗れなくなっていたけど、それを承知で厩舎に招いてくれ、調教の仕方とか、色々な事を教えてくださいました」

右が横山、右から3人目が藤沢和雄
右が横山、右から3人目が藤沢和雄

 また、怪我をした時に騎乗していたニシノゲイナーの西山茂行オーナーも声をかけてくれた。

 「『うちの牧場で指導員として働いてみないか?』と言ってくださいました。怪我をして2年後くらいだったはずですけど、多分ずっと気にかけてくださっていたのだと思います」

 西山オーナーに確認すると、次のような答えが返って来た。

 「指導員や将来の場長も考えてお誘いしました。ただ、決して落馬の一件があったからではなく、その人柄に以前から注目していたので、声をかけさせていただきました」

 これに対し、横山は「競馬なので仕方ありません。オーナーは何も悪くありません」と、丁重にお断りし、気持ちだけを受け取った。

 こうして17年、正式に鞭を置いた。

 「怪我により強制的に引退となるのだけは、嫌でした。でも、いつまで経っても体が思うように動かないし、ドクターストップもかかったので、受け入れるより仕方ありませんでした」

意志を継いだ息子が騎手デビュー

 新たな人生を考え、JRAファシリティーズに就職を決めた。

 「現在はその会社で一般社員として、トレセンでの調教監視等のまとめ役をやらせてもらっています。馬に乗れなくなったので、調教助手等の道も閉ざされた自分を拾ってくれて、感謝すると共に、新たに与えられた仕事を一所懸命やる事で恩返ししようと考えながら働く毎日です」

 義行が新たな道を歩み始めてすぐの18年には、琉人が競馬学校に入学した。

横山琉人の競馬学校入学式での一葉
横山琉人の競馬学校入学式での一葉

 「僕が怪我をしてしょっちゅう入院しているのを見ていたし、最後はこういう形で引退に追い込まれたのも知っているだけに『それでもなりたい』と言うのは、不思議な気持ちでした」

 琉人にそのあたりを確認すると、売り出し中の19歳は答えた。

 「父を見て格好良いと感じ、騎手を目指しました。その父が志半ばで引退を余儀なくされて『代わりに』というわけではないですけど、より以上に騎手になりたい気持ちは強くなりました」

 父の意志はしっかりと受け継がれている。もう一つの横山親子の活躍に期待しよう。

西山オーナーの勝負服に身を包む横山琉人
西山オーナーの勝負服に身を包む横山琉人

(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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