毛利元就が狙った財宝!?「銀山争奪戦」の末に残ったモノとは
2024年1月19日より公開された実写映画「ゴールデンカムイ」はご存知でしょうか。
原作マンガをもとに製作された映画では、広大な北海道の土地でアイヌ民族が隠した黄金を探すフィクションとして描かれていました。
黄金や財宝、埋蔵金といったワードに「ロマン」を感じる方も少なくないはずです。
ということで今回は、日本最大級の「財宝」を巡って勃発した「銀山争奪戦」について紹介します。
石見銀山
日本が各地で内紛を繰り返していた戦国時代、加工や抽出が難しい「銀」は金にも勝る至高の財宝として扱われていました。
その当時、日本は世界の3分の1を占める銀産出量を記録しています。
なかでも島根県の「石見銀山」は別格で、日本を知らない西洋の海賊ですら「宝の眠る地・石見銀山」として認知していたほどでした。
銀が採掘される「金の成る山」だった石見銀山の利益は、国内の有力武将たちの目に留まることとなります。そして、このことがキッカケとなり、日本最大級の財宝を巡った「銀山争奪戦」へと発展することになったのです。
銀山争奪戦!大内氏の支配偏
石見銀山が発見されたのは1527年のこと。当時、周防国南部(現・山口県)に拠点を置く大内氏が最初に鉱山の支配権を握りました。
石見銀山の重要性を理解していた大内氏は銀山周辺に城などの要塞を建築し、石見銀山を奪おうと目論む敵対勢力から富の山を守る防衛体制を整えたのです。
1530~1540年代になると、石見銀山を奪い取ろうと「小笠原氏」や「尼子氏」が侵攻を開始し、銀山周辺では常に激しい戦闘が繰り広げられました。
しかし、大内氏はこれらを撃退することに成功しています。
銀山争奪戦!毛利元就の侵攻編
1550年代になると、中国地方で戦国最強の一角にも数えられる「毛利元就」が台頭。この頃から、大内氏の銀山支配は崩れ始めます。
1562年になると、石見銀山を完全に掌握した毛利元就は、さらなる要塞化を図りました。
銀山近くの港には水軍基地を設置して、港から銀の輸送航路や補給路を守ったのです。
戦国時代最強の水軍を誇る「毛利水軍」の守りは強固だったようで、1600年の関ヶ原の戦いで毛利元就が徳川家康に敗れるまで、一度も銀山への侵攻を許していません。
過去の財宝
江戸時代以降も石見銀山は活用されていましたが、抽出技術の進歩によって銀が容易に生産できるようになり価値が暴落。銀山から採掘できる銀の量も減り続け、1923年に閉山となってしまいます。
過去に財宝として扱われた「銀」は、時代とともに価値が大きく下落してしまいました。しかし、世界的に見ても珍しい銀産地「石見銀山」は世界遺産に登録され、現在でも価値あるスポットとして存在し続けています。
気になった方は、ぜひ足を運んでみてくださいね。