NHK貧困報道”炎上” 改めて考える貧困と格差
”炎上”の経緯おさらい
ある高校3年生が、子どもの貧困に関するイベントで、当事者として発言した。
それをNHKが7時のニュースでとりあげた。
50万円の学費が工面できずに好きなデザイン系の専門学校に進学できないこと、家が貧しくてクーラーがないことなどが映し出された。
特に、視聴者に強い印象を与えたのが「1000円のキーボード」だった。
中学生のとき、パソコンの授業についていけなくなったとき、母親が「パソコンは買ってあげられないが」と買ってくれたものだったという。
ところがその後、彼女が好きな映画を6回見ていることや、7800円のコンサートチケットを買っていること、好きなマンガの関連グッズを買って「散財した!!!」と書いていることなどがツイッターの発言履歴からわかった。
“炎上”した。
国会議員の片山さつき氏がNHKに説明を求めた。
氏のツイッターによれば、NHKは「貧困の典型例として取り上げたのではなく、経済的理由で進学を諦めなくてはいけないということを女子高生本人が実名と顔を出して語ったことが伝えたかった」と説明した。
――こういうことがあった。
「裏切られた感」が”炎上”を招いた
高校生のツイッターを見て、怒りを覚えた人たちの気持ちはわかる。
番組を見て「1000円のキーボードしか買えないほど家計が苦しい」という印象を受けたのに、実態が違う。
だまされた、と感じる人はたくさんいただろう。
その「裏切られた感」が“炎上”を招いた。
彼女は、番組から印象付けられたほどには貧しくない、
過剰に貧しさを演出するのは行き過ぎではないか、と。
それが「ねつ造」という批判になった。
ねつ造されたのは「貧困」だ。
彼女は「貧困」でないのに「貧困」とねつ造されたのだ、と。
相対的貧困状態とは矛盾しない
それに対して「いや、それも貧困なんです」という反論が出ている。
いま日本で言っている「貧困」は「相対的貧困」のことであり、
それは彼女のような「趣味に使えるお金がないわけではないが、まとまった進学費用は用意できない」という低所得家庭を含む。
単身者で約122万円、2人世帯で約173万円、3人世帯で約211万円、4人世帯では約244万円までは、日本政府の定義で「相対的貧困」であり、
相対的貧困状態であっても上のほうは、衣食住にも事欠く状態ではない。
でも、定義上「貧困」だ。
したがって、彼女が同じ映画を6回見ようと、7800円の観劇をしようと、1000円以上のランチを食べようと、
それは相対的貧困状態の中でのやりくりの話であって、相対的貧困状態であることと矛盾しない、と。
だから、彼女は「(絶対的)貧困」ではないだろうが「(相対的)貧困」であり、「子どもの貧困」というタイトルの下に彼女をとりあげても問題ないし、
彼女の消費実態は「進学できない」という番組の中心的要素に比べて枝葉の問題なので、とりあげなかったことも問題ない。
だから「ねつ造」という批判は当たらない、と。
理屈は正しくても腹落ちしていない、「格差」と「貧困」
この反論は、理屈の上では正しく、私もそのように言ってきた。
と同時に、今回の“炎上”は、その理屈を十分に普及・浸透させられていない、より多くの人に「腹落ち」してもらっていない、という私たちの力不足を示している、とも思う。
「貧困」といえば、当然に衣食住を欠くほどに貧しいことを指す、と考える人は依然として多い。
周りの人ができることができない(「みんなが修学旅行に行くのに、自分だけ行けない」)といった相対的落ち込みは、日本ではむしろ「格差」の問題として語られてきた。
衣食住に事欠くほどの「貧困」なら、社会的に「なんとかすべき」だが、
「格差」なら、ある程度は許容できるし、許容すべきだというのが、大方の理解だ。
ではその「格差」と「相対的貧困」は、どういう関係にあるのか。
改めて考える「貧困」と「格差」
格差はある程度までは「あって当然」のものである。
たとえば「経済的格差ゼロ」の世の中は考えにくいし、もしあったら気持ち悪い。
むしろ、ある程度の格差がなければ資本主義は成立しないだろう。
差異(違い)は多様性の源だからだ。
ところが、「ある程度」を超えると、格差は社会に対してマイナスに作用し始める。
活力の源泉ではなく、活力をそぐ方向に機能し始める。
副作用が目立ち始める。
個人単位では、ある程度の格差は努力の源泉になる。
「自分だって、やってやる」と。
しかし、ある程度を超えると「あきらめ」「絶望」が生まれ始める。
「どうせ無理」「やっても無駄」と。
その怖さはみんなが知っている。
だから繰り返し言う。
「夢や希望をもてるように」と。
社会単位では、ある程度の格差はイノベーションの源泉になる。
「より多くの教育投資」「他社よりよいサービス」「さらに便利な商品」。
しかし、ある程度を超えると「排除」が生まれ始める。
進学できない、健康被害、社会的孤立、自殺、「誰でもよかった殺人」……。
これは社会の活力をそぐ。
「ある程度の許容範囲の格差」と「過度の格差」の境界を示すメルクマールが「相対的貧困」だ。
これを超える落ち込みを示す人たちが増えると、消費は停滞しますよ、活力はむしろそがれてしまいますよ、社会は不安定化しますよ、と。
だからOECDのような国際機関が、手間暇かけてデータを収集し、報告書をつくり、各国に検討を促している。
日本政府も、それがわかっているから、相対的貧困率を発表し、「一億総活躍」を謳い、最低賃金をかつてないペースで引き上げている。
相対的貧困指標の”限界”
もちろん「相対的貧困」は機械的な指標であり、あくまでメルクマール(目安)にすぎない。
相対的貧困は「所得の中央値の2分の1未満」を指すが、「2分の1未満」に明快な根拠はない。
「2分の1未満」という指標は、OECD(経済協力開発機構)が設定した共通指標にすぎない。
現にEUは、独自に「所得の中央値の60%未満」をメルクマールにしている。
日本が独自に「所得の中央値の40%未満を『過度の格差』と認定する」と設定することも可能だ。
社会的な目安なので、個人差を言い出せば、あてはまらない人たちも大量に出てくる。
極貧だったからこそがんばって成功した、という人がいるだろう。
その人にとっては、過度の格差こそが自分の活力の源泉だった。
中途半端な違いでは、むしろ「燃えない」と感じる人だっているだろう。
特に日本は、「奇跡」と言われた高度経済成長を体験した国だ。
敗戦で生まれた欧米との巨大な格差を埋めてきた経験を持つ。
急速に生活が豊かになり、社会的地位の上昇のチャンスも多く、幼少期にとても貧しかった経験を持つ人が、功成り名を遂げている事例は少なくない。
しかも、その体験を自身の体験として持っている世代が、まだ健在だ。
大きな格差に対する社会的な許容度は、良い悪いは別にして、欧米諸国よりも高いと言っていい。
他方、わずかな違いで深く傷つく人たちも、当然いるだろう。
親の方針によって左右される子どもの消費行動
子どもについては、さらに「はずれ値」の増える可能性がある。
多くの場合、子ども自身には収入がなく、子どもの懐具合は親が決める。
家庭的には裕福でも、親の教育方針によって子どもにわずかな小遣いしか渡さない家があるだろう。
その家の子は、貧困家庭の子どもよりも自由にできるお金が少ないかもしれない。
貧困家庭でも、自分のアルバイト代は全額自由に使えるという家もあるだろう。
その子は、他の子よりも「羽振りがよい」かもしれない。
家にお金がなくても、子どもにはスマホやゲーム機を買い与えようとする家もあるだろう。
反対に、家にお金があっても、子どもにはスマホやゲーム機を買い与えないという家もあるだろう。
買い与えることが、教育のためなのか、単に子どもにせがまれたからなのかによって、「意味」も違ってくるだろう。
子どもの消費実態が、家全体の所得の多い少ないをどこまで反映しているか、大きな傾向は示せても、個々に見れば「その通りではない」事例は数多く見いだせるだろう。
それでも言えること
したがって、機械的な指標である相対的貧困の状態にあることが、その家庭の行動を一義的に説明してくれるわけではない。
また、子どもの消費行動が一律に決まるわけでもない。
それでも、おそらく、以下のことは言える。
1、相対的貧困率が傾向的に高まっていく国は、中長期的な発展についての疑問符がつく。
日本は2006年15.7%、09年16.0%、12年16.1%と相対的貧困率が傾向的に高まっている。
傾向的には下がっていくほうが、国の健全性にとって望ましい。
また、子どもの貧困率は、06年14.2%、09年15.7%、12年16.3%と、国全体の伸び率よりもさらに強い上昇傾向にある。
「だからこそがんばれる」という人も個々にはいるだろうが、やはり好ましいこととは言いがたい。
だからこそ、与野党全会一致で「子どもの貧困対策の推進に関する法律」ができた(2013年)。
2、相対的貧困状態が解消しても、格差はなくならない。
仮に全員が「中央値の2分の1以上」に収まったとしても、中央値との格差がゼロになるわけではないし、数十億、数百億稼ぐトップの人 たちとの格差がなくなるわけでもない。
相対的貧困率を傾向的に減らすことは「格差をなくす」ことではない。
3、資本主義国でも、それは可能だ。
同じ資本主義国でも、相対的貧困率には大きなバラつきがある。
OECD諸国の中で、最も相対的貧困率の低いデンマークは5.4%、イギリスも10.4%(OECD2013年)。
資本主義国においても、相対的貧困率を減らすことは可能だ。
4、相対的貧困率を減らすのは、現金給付だけが唯一の方法というわけではない。
たとえば保育園を整備すれば、働き続けられるシングルマザーの割合は増え、その家庭の所得は増える。
介護サービスで介護離職を減らすのも同様の効果がある。
相対的貧困状態への対処法は、家庭への直接の現金給付以外にも、多様な方法がありえる。
実際、子どもの貧困対策として行われている施策も、学習支援、食事支援、相談員配置など、サービスの整備が中心だ。
反省とこれから
今回のNHK貧困報道“炎上”は、
登場した高校生と番組を制作したNHKが「まとまった進学費用を用意できない程度の低所得、相対的貧困状態にある」ことを提示したのに対して、
受け取る視聴者の側は「1000円のキーボードしか買えないなんて、衣食住にも事欠くような絶対的貧困状態なんだ」と受け止めた。
そのため、後で出てきた彼女の消費行動が、
一方からは「相対的貧困状態でのやりくりの範囲内」だから「問題なし」とされ、
他方からは「衣食住にも事欠くような状態ではない」から「問題あり」とされた。
いずれにも悪意はなく(高校生の容姿を云々するような誹謗中傷は論外)、
行き違いが求めているのは、
衣食住にも事欠くような貧困ではない相対的貧困は、許容されるべき格差なのか、対処されるべき格差なのか、
という点に関する冷静な議論だ。
そしてその議論は、どうすればより多くの子どもたちが夢と希望を持てて、より日本の発展に資する状態に持っていけるか、という観点でなされるのが望ましい。
その際には、高度経済成長を経験した日本の経緯からくる特殊性や、格差に対する個人の感じ方の違いを十分に踏まえた、丁寧な議論が不可欠だ。
私は貧困問題を強調してきたが、その点が十分だったかと言えば、反省がある。
なので、今回の一件に関しては、登場した高校生に対しても、「裏切られた感」を抱いた視聴者にも、申し訳ないと感じる気持ちがある。
その反省を踏まえ、今回の一件を建設的議論に発展させていきたい。