露コロナワクチン「スプートニク5号」プーチン永世大統領の危険な賭けの勝算
今月末から医療従事者や保健担当教員に接種
[ロンドン発]ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は8月11日、モスクワのガマレヤ記念国立疫学・微生物学研究センターが開発した新型コロナウイルス・ワクチンの一般市民向け使用が承認されたことを明らかにしました。
中国は人民解放軍の兵士に限定してワクチンを承認していますが、一般市民向けの承認は世界で初めて。米紙ニューヨーク・タイムズによると、世界では176以上の新型コロナワクチンの研究・開発が進められており、8つの第3相試験と11の第2相試験が行われています。
ロシアの臨床試験にはプーチン氏の娘も参加。国営タス通信に対し、プーチン氏は「接種後、摂氏38度の熱が出たものの、翌日には37度まで下がった。2度目の接種後も微熱が出たが、異常はなく、高い抗体価が確認された」と評価しました。
プーチン氏には前妻のリュドミラさんとの間にマリアさん(35)とカテリーナさん(33)という2人の娘がいますが、どちらがワクチンを接種したのかは分かっていません。一部のメディアは接種したのはモスクワ大学で博士号を取得した元ダンサーのカテリーナさんと報じています。
ミハイル・ムラシュコ保健相によると、今月末にも感染者との接触を余儀なくされる医療従事者や保健担当教員に対して接種を始め、感染者と接触する可能性の高い市民から順に接種の範囲を広げていく方針。12月から来年1月には月500万回分を製造する計画です。
「スプートニク・ショック」
ロシアは中東のサウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)での第3相試験など20カ国から10億回分の要請を受け、うち5カ国向け5億回以上分の生産を確保する準備はできているそうです。開発に投資する政府系のロシア直接投資基金は「ワクチンを世界に均等に提供すべきだ」と強調しました。
ワクチンは、アメリカをはじめ西側諸国に衝撃を与えた1957年の旧ソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」にちなんで「スプートニク5号」と名付けられました。しかし今回は全く逆の意味で「スプートニク・ショック」を広げています。
英科学メディア・センターによると、インペリアル・カレッジ・ロンドン国立心肺研究所のピーター・オープンショー教授は「38人を対象に2カ月足らずで第1相試験か第2相試験を実施したようだ。第3相試験は行われておらず、完全に試されたわけではない」と強調しました。
同大学の免疫学者ダニー・アルトマン教授は「アデノウイルスをベクター(媒介)に使っているという以外に、ロシアのワクチンに関する情報はほとんどない。安全でも効果的でもないワクチンによる副次的な被害は現在の問題を克服できないほど悪化させる」と指摘します。
英レディング大学のウイルス学者イアン・ジョーンズ教授も「より大きなリスクは、獲得された免疫が感染を防ぐのに十分ではなく、免疫された個人間でウイルスが拡散し続けることだ。出来の悪いワクチンはワクチンがないより悪い結果をもたらす」と警鐘を鳴らしました。
国家の威信にこだわるプーチン大統領
ワクチンが「スプートニク5号」と名付けられたことからも分かるようにプーチン大統領がこだわったのは国家の威信です。2018年のロシア大統領選で77%の得票率で圧勝したプーチン大統領は今年6~7月、憲法改正国民投票を実施して大統領選とほぼ同じ77%の賛同を得ました。
この改正でプーチン氏は2036年、84歳まで大統領を務められるようになりました。しかし新型コロナウイルスの流行でロシアの感染者は90万2701人、死者も1万5260人。欧州各国の第一波は収束したものの、ロシアの死者は1日130人(8月11日)で、まだとても収束したとは言えません。
コロナ対策として世界中で都市封鎖(ロックダウン)が行われたため、原油価格は急落。米エネルギー省(eia)のデータによると、米市場の指標であるWTI(青色の折れ線グラフ)は4月20日、前代未聞の▲(マイナス)36.98ドル/バレルを記録しました。
現在、WTIは40ドル前後、欧州市場の指標であるブレントは40ドル台前半をなお低迷しています。1バレル=40ドルを下回るとロシアの政治・経済は黄信号、20ドルを割ると赤信号です。WTIとブレントがともに20ドルを下回った1991年、ソ連は崩壊してしまいました。
世界銀行によると、ロシア経済は今年、過去11年間で最低の▲6%、来年は2.7%、2022年は3.1%のプラス成長に転ずる見通しです。プーチン大統領の支持率は2015年のピーク時の89%から今年4、5月には過去最低の59%にまで下落。一方、不支持率は今年3月、過去最高水準の36%にまで上昇しました。
医療機関や大学、製薬会社にサイバー攻撃を仕掛けるロシア
娘にワクチンを接種したというのが本当なら、プーチン氏は第3相試験を行っていないにもかかわらずワクチンに相当な自信があるようです。危険過ぎるとも言えるギャンブルに勝てば、プーチン氏とインナーサークルは巨万の富と利権を手にするかもしれません。
まさに一発逆転です。
プーチン氏にはっきりとした勝算があるのかどうかは分かりません。しかし、人民解放軍の兵士に使用を限定して承認された中国のCanSino Biologics社や第3相試験中の英オックスフォード大学・アストラゼネカの新型コロナワクチンはロシアと同じようにアデノウイルスを使っています。
今年7月こんな事件がありました。イギリス、アメリカ、カナダ3カ国は、新型コロナウイルスのワクチン研究に関する情報や知的所有権の窃取を狙って医療機関や大学、製薬会社にサイバー攻撃を仕掛けるロシアの情報機関を非難するとともに警戒を呼びかけました。
ドミニク・ラーブ英外相は「ロシアの情報機関がパンデミックと戦っている人々を標的にしていることをとても容認できない」と批判しました。ロシアは世界がしのぎを削る新型コロナワクチンの研究・開発のデータをサイバー攻撃で収集している可能性は否定できません。
英国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)や米国家安全保障局(NSA)によると、「APT29」「Cozy Bear(コージー・ベア)」「The Dukes(ザ・デュークス)」の名で知られるグループの犯行で、連邦保安局(FSB)の一部であることがほぼ確認されています。
このグループはさまざまなツールや手法を使用して、政府、外交機関、シンクタンク、医療とエネルギーを主な対象としてサイバー攻撃を仕掛け、最先端の情報や機密を盗みだそうとしています。今年に入って英米加3カ国で新型コロナワクチンを研究する組織を標的にしていました。
プーチン氏は大統領に返り咲いた2012年からハッカーやサイバー戦争の能力向上のため、資金と人材を大量に投入したと言われています。健康な人に打つワクチン開発には慎重さが求められるものの、自らの権力基盤を固め、大ロシア主義を推進するためならプーチン氏は手段を選ばないでしょう。
新型コロナワクチンを巡っては今年4月、米政府高官が米CNNに対し「中国の国家機関や犯罪組織はアメリカのコロナに関する研究の情報を盗むためサイバー攻撃を仕掛けている」と非難しています。パンデミックの裏側で自由主義国家と権威主義国家の覇権争いは激化しています。
(おわり)