「良い日本人」に「悪い非日本人」という常識について考える。
多文化が共に楽しみ、力にかえ、共に笑える世を願う人間にとって、最も見聞きしたくないのは、共生をマイナスとして捉えられかねない報道である。過去の教訓や現状を参考に、平和で持続可能な未来日本像について真摯に考えるほどその気持ちが強くなる。
生憎ながら、私などの30年ほどの日本滞在中にも何度かこれらの不都合な真実(報道)を耳にした。もっとも最近のものだと「ペルー人男性による殺人事件(ママ)」がそうだった。「日本において、外国出身者による犯罪などは起きてほしくない」と願っている身としてこれほどショックなことはない。事件の報道を聞いた瞬間、内心「しまった」と悔しい思いをした。
私は「違いを楽しみ、力にかえる、多文化共生"新"時代」などの題名を引っさげて、日本のあちこちで講演をしているが、この手の事件が起きてしまうと、「共生」について語っても、誰も聞く耳をもってくれないのではないか、と自問自答をした。
それにしても、世の中の報道について素朴な疑問を抱くことも少なくない。そこには一種の偏りが見える。そこにはいつも共通して存在しているキーワードがある。個人として持ち合わせている言葉で言うと、それは「多数派本位」ということになる。報道の一つ大きな特徴は、社会の多数派に向けて、多数派によって、多数派視点で発せられているということである。2005年にも広島で「ペルー人による事件」(ママ)があったが、それから10年が経っていても報道の立ち位置に変化はない。
報道に対して違和感を感じる点はいくつかある。
1つは、加害者の名前と出身国(国籍)をかならずセットにして、しかも1ヶ月近く繰り返し報道されていることである。国家が、産み落とした1人の人間のためにどこまで責任を負わなければならないか。成人した子の行いに対して親がいつまで経っても追っかけられ、責任を負わされている妙にも似ている。加害者を表現するにあたって、国籍とセットで○○人として表現することが絶対的に必要なのかを再考しても悪くない。
「ペルー」と「殺人」のキーワードがセットになった報道が繰り返されては、受け手の多数派日本人は、国としての「ペルー」やペルー関連全般に対して、無意識に拒否反応をもつのではないか。そのことで日本の多数派が自ら視野を狭めてしまうだけではなく、ペルー人自身も、例えば、日本に住む5万人近くの在日ペルー出身全員に対しても偏見をもたれかねない。多数派も少数派も、自他ともに被る損失が大きい。
2つ目の報道に対する違和感は、報道におけるペルー人のアイデンティティは断片的であると言うことである。彼は「日系」であることが紹介から省かれている。彼は「日系ペルー人」である。ペルー人であると同時に日系人でもある。実は、彼が現在、日本に在住できる最大の理由は、彼は「日系人」ということにある。彼が日本に入国出来たのも、滞在資格の取得を可能にした最大の理由も彼が日系人であるということにある。日本の報道は加害者が「日系」であると言わないことによって、「日本人は悪いことをしない」と真実を歪曲させているとも思える。
報道する側が、国籍を重んじていると仮に言ったとしても疑わしい。日本のメディアにおける報道の立ち位置は一定していない。そこには常にご都合主義が存在している。例えば、同じ日系ペルー人のアルベルト・フジモリが大統領になった時は、大々的に「日本人」として報道されたことを記憶している。2014年にノーベル物理学賞を受賞した、中村修二が米国籍であるにも関わらず日本人と報じた。日本人は優秀であると言いたいに違いない。
2005年に起きた「中国人妻による保険金目当ての殺人(ママ)」についての報道を思い出す。彼女は日本国籍を取得していたので、国籍上は日本人だが、メディアは彼女の元々の国籍までさかのぼり外国籍として扱った。逆に、野球の王貞治の場合は、国籍はいまだ中華民国(台湾)であるにもかかわらず、初となる国民栄誉賞まで与え、日本人として讃えた。
日本の報道を注意深く観察すると、「良いことは日本人」、「悪いことは非日本人」という、単純なロジックの上で成り立っていることに気づく。日本のメデイアにおける多数派本位の傾向は、「外国人犯罪(ママ)」を強調した番組づくりなどでも見られる。日本の国際化に伴い海外にルーツのある人間も増えてきた。確かに海外出身者による犯罪も起きている。必ずや食い止める必要がある。
しかし、メディアにおいて展開されている「良い日本人」に「悪い非日本人」という演出は社会を騙しているに過ぎず、社会に幸せをもたらすとも思わない。メディア側の多数派に照準を合わせた報道をしたくなる気持ちは筆者としても心情的には理解できる。しかしメディアとして、多数派視点に凝り固まった報道は許されるべきものではない。