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[2023年の高校野球回顧]たった一人の甲子園優勝投手にして優勝監督、死す……その2

楊順行スポーツライター
2019年センバツで準優勝した習志野・小林徹監督(右端)は、石井好博さんの教え子(写真:岡沢克郎/アフロ)

 1967年夏。2度目の甲子園出場を果たした習志野は全国的にはまだ無名で、石井好博さんによると、

「力としては、相撲でいう前頭がいいところだね。だから、けたぐりでもなんでもして、強いところを食ってやろう、という意識はあったよ。たださすがに、準決勝の相手が中京(現中京大中京・愛知)という横綱でしょう。実は前の年の夏、関西遠征したときに、中京(当時中京商)と桐生(群馬)の試合を甲子園で見ているんです。なにしろこのときの中京は春夏連覇を達成するんだから、レベルの高さに驚いたね。攻守それぞれのプレーははもちろん、離塁のスタートとかイニング間のボール回しひとつとっても、驚くようなレベルの高さ。ただ、だからこそわれわれも練習したね。甲子園で勝つには、中京くらいのレベルじゃないとダメなんだ……と痛感したから」

 その、中京との準決勝である。習志野は石井さんのタイムリーなどで3点をリードし、守っても石井さんのシュートと持ち前の投球術がさえて得点を与えない。なにより光ったのは、芸術的なけん制だ。山口生男、田中正美の二遊間、さらに捕手・醍醐恒男(元阪急ほか)と石井さんとの、緻密なサインプレー。たとえば、ショート田中が走者の注意を引きつけ、二塁キャンバスに近づいたセカンド山口がなにげなくベースに入る。そこへ、醍醐からのシグナルを受けた石井さんが、タイミングを合わせて素早いストライク送球。ほかにもいくつものけん制パターンがあり、試合巧者・中京の二塁走者をなんと4回も刺している。

「当時の市原(弘道)監督は、関西仕込みの細かい野球をいろいろ教えてくれた。ただ、何パターンものけん制は、われわれが考えついたものです。それを繰り返し繰り返し練習して、体に染みこませていた。だから監督は"ここでけん制"というサインは出すけど、どのパターンで行くのかはわれわれ任せだよ。それでも、あの試合が一番苦しかったね。9回2死まで3点リードしていたのに、そこから粘られて四球。エラーが続いてヒットもからみ、1点差で2死一、三塁と逆転されそうなピンチだったんだ」

 このピンチをなんとか切り抜け、3対2で逃げ切った習志野は、広陵(広島)との決勝を7対1で快勝し、千葉県に初優勝をもたらすわけだ。そして石井さんは、75年夏にも、小川淳司(元ヤクルト)がエースの母校を率い、2度目の優勝に導くことになる。もともと、早稲田大に進んだときから指導者という将来が頭にあったのだという。

「自分の力は、自分が一番よくわかる。プロに行くだけのものはないし、そもそも当時は、野球でメシを食っていくことがあまり好きじゃなかったしね」

 さらに、高校時代の投げ込みがたたってか、右肩は鈍く痛む。早大の4年間でリーグ戦の登板はわずか2試合、コーチャーやバッティング捕手がおもな役回りで、卒業前にはある企業に就職が決まっていた。

 ところが、そんな71年。当時習志野を率いていた麻生和夫監督が、翌年度限りで退くことになった。そこで、在学時代の越川道弘野球部長が、次期監督として石井さんに目をつけた。石井さんも、大学の野球部から派遣され、いくつかの高校で「指導というより、兄貴のような感覚で、"オレはこういうことをやってきたよ"と手ほどきする感じ」と指導を手伝いながら、高校野球の面白みを感じてはいた。

 そこで、越川部長とともに就職先に頭を下げ、大学を留年して教職課程(一度は途中で挫折していた)を履修しながら、母校の指導を手伝った。掛布雅之(元阪神)が2年生だったその72年夏、習志野は5年ぶりの甲子園に出場。石井さんは大学5年生の学生監督として指揮を執っている。晴れて教員となった73年夏は県ベスト8にとどまり、翌年夏も3年生エース・土屋正勝(元中日ほか)、2年生に篠塚利夫(元巨人)がいた銚子商に4回戦で敗れた。銚子商は、そのまま全国制覇。

「やはり、土屋はよかった。私自身もこの年は、銚子商に勝てないだろうと思っていました。翌年の主力になる小川ら、下級生が中心だったからね。やはり、0対2で負け。ただ、小川らの代は面白いぞ、と思った記憶がある。試合に出ていないのを含めて、下級生がみんな泣いていたからね。チームがひとつになった感じがしたよね」

 と石井さんは振り返る。小川は、中学時代はおもに三塁手だった。入学してくると、体が強いのでまずは捕手にしたが、5月ころにピッチャーをやらせると、投げ方は悪くない。6月ころの練習試合では、四球を10個出しながら勝ち投手と、荒削りではあるが片鱗を示すようになる。

適材を適所に配置する

 入学試験のハードルが高かった当時の習志野では、たまたま入部してきた選手の適所をいかに見極めるかがまず問われた。そもそも、投手が5人いてもチームは機能しない。コイツはショート、コイツは外野がいいだろう……むろん、将来も見すえて、だ。だから習志野では、中学からずっと同じポジションという選手はむしろ少ない。

 そういう石井さんの手腕で、適材が適所に配された小川たちのチームは強かった。74年秋には下馬評通り県で優勝し、75年センバツに初出場。このときは初戦で豊見城(沖縄)に敗れたが、春の千葉も制した。夏は準決勝で銚子商と対戦し、小川が2ラン。篠塚とは徹底して勝負を避け、2対1と前年の雪辱を果たすと、決勝でも君津を撃破。3年ぶりに出場した夏の甲子園で、2度目の優勝を飾るわけである。石井さん自身が優勝投手となってから、わずか8年後のことだ。

 3完封という小川の好投、そして打線の爆発が印象的な優勝だった。なかでも準々決勝の磐城(福島)戦では23安打16得点、全員複数安打という記録も残している。石井さんはいう。

「センバツで、豊見城の赤嶺(賢勇・元巨人)君に完封されたから、徹底的に打撃を鍛えた。グラウンドに照明がなかったから発電機を買って、500ワットの照明を4つ。合宿中は夜中の1時までティーバッティングをして、翌日は早朝からランニング……」

 そして、「野球は筋書きのないドラマだけど、その筋書きが少しでも読めるような、周到な練習をした」のだという。たとえば75年夏、雨で2日順延した新居浜商(愛媛)との決勝。習志野は、思わぬ3点のリードを許し、5回無死一、三塁のチャンスには、越智修一が一塁ファウルフライを打ち上げた。新居浜の一塁手がこれを好捕するが、一塁走者がタッチアップで二塁を狙うスキに、本塁カバーの不在を抜かりなく見てとった三走が生還する。新居浜守備陣はここから浮き足立ち、野選とエラー2つが続いて習志野が逆転した。

 あるいは同点の9回裏、先頭の越智がツーボールとなり、石井さんは「待て」のサイン。ただし、このケースの「待て」は、もしストライクなら意図的に空振りしろ、という意味を含む。どっちみちストライクなら、見逃すよりも空振りをしておけば、相手バッテリーが勘違いして、次にもう1球同じ球がくるかもしれない……案の定越智は、3球目の空振りと同じボールを左前に打ち返すと、2死からの下山田清のヒットでサヨナラ優勝のホームを踏んでいる。中継で解説を務めた松永怜一氏は、邪飛でのタッチアップと空振りの意図を見抜き、"よく練習していますね"と感嘆したという。

「申し訳ないけれど、力的には明らかにこちらが上。それが、雨の順延が新居浜に味方して、苦しい試合になったんです。だけど……野球は往々にして、筋書き通りいかないからおもしろいのかもしれないね」

 という石井さんの言葉を思い出す。そもそも、開幕&優勝投手にして優勝監督などという筋書きは、100年を超す高校野球の歴史にして、石井さんたった一人なのだ。ご冥福を祈ります。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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