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2年生エースで春夏連覇寸前 追悼・池永正明さん(その2)

楊順行スポーツライター
2001年に発足したマスターズリーグでは、ピッチングも披露した(撮影・筆者)

 1963年、センバツ。下関商(山口)は初戦を突破したが、2回戦からは苦しんだ。のちに南海入りする海南(和歌山)の山下慶徳とは延長16回を投げ合い、最後は池永正明さん自らの二塁打でサヨナラ勝ち。準々決勝は、御所工(奈良)に9安打を浴びて3点を失い、最終回に辛くも逆転した。準決勝、市神港(現神港橘・兵庫)戦も、1点を先行されながら逆転勝ち。

 決勝の北海(北海道)戦も、10対0というスコアほど楽な試合ではなかった。序盤、再三のピンチをしのいだのだが、ことに初回は、ヒットを2本打たれ、さらにパスボール。だがそのボールが、バックネット下部のコンクリートに当たり、キャッチャーにまっすぐ返ってくる。これで三塁走者がタッチアウトと、運に恵まれた。

「あれがなかったら2、3点取られていてもおかしくなかったでしょう。そういう運がないと、全国大会ではなかなか優勝できんとですよ。それとあのときは、2年生のレギュラーが5人という、当時としては珍しいチーム。初戦は多少は緊張したけど、高校野球というのはおもしろいもんで、2年生は上に3年生がいると思うと不思議と気が楽なんですよ。

 それと、最初に強い相手(明星・大阪)としたけん、よかったかもしれんね。そのあとも接戦ばかりで、勝てるとは全然思わんやった。御所工は、いい選手がそろっていましたよ。よく打つチームで、キャッチャーの元田(昌義)さんは南海に入り、六番の東田(正義)さんは西鉄でいっしょにプレーしました。下商は守りのチームやったですから、守って守って接戦をものにしたあの試合は、下商らしさがよう出たといえるでしょう」

 当時の写真で印象的なのは、マウンド上での池永さんがとても生き生きとしていることだ。きわどいコースをボールと判定でもされたのだろうか、両手を腰にやり、「ええ〜っ?」という声が聞こえてきそうな笑顔。あるいは、図太い表情で優勝旗を見つめている宿舎での一コマ。封建的だった当時の部活動からすれば、いっそ奔放ともいえる表情だ。優勝決定後のインタビューでは、イヤホンを通して、スタンドにいる父親に「父ちゃん、泣かんでもいいやないね。やったばい!」。

「スタンドで泣いている親父を見たら、恥ずかしくなってきたわけですよ。まだ16歳でしたから。それをマスコミが『親父、泣くな』と書いたとです。大胆不敵なヤツや、と。ただ下商は、大会期間中でも宿舎でそろばんをやっとったくらいですから、規律はしっかりしとったんです。宿に戻り、優勝旗を持ってみんなではしゃいでいたら、部長先生が『お前ら、なにを有頂天になっとるか。明日の朝、下関に帰るぞ』」

 翌朝、岩国でバスを降り、自衛隊のジープに乗り換えると、そのままパレードとなった。下関まで延々100キロ。途中で山口県庁にも立ち寄ったから、下関に着いたときにはすっかり日が落ちていた。それでも駅前には、20万人を超える人々が出迎えたという。ファンレターも、山ほど届くようになった。だがこれも、部長が事前に検閲した。過激な内容だったり、ときに『おいしいものでも食べて』と現金が同封されたりしていたからだ。周囲のはしゃぎように影響され、"有頂天にならない"ための配慮だ。

 迎えた夏。どこも「打倒・下商」「打倒・池永」で挑んでくる。だが池永はそれらをすべて0に封じ、下関商が春夏連続で甲子園に出場するのは前回書いた通りだ。池永さんはいう。

「目標にされても、逃げも隠れもできん。それなら堂々とやっちゃるばい、ちゅう気持ちでした。無失点……その後の江川(卓・作新学院[栃木]、元巨人)に比べたら私はちょろいけど、場慣れしたのが大きかったね。相手バッターの雰囲気を感じることができるようになった。コントロールがいいわけじゃなかったけど、いつもストライク先行。そうしないとドロップの使いどころがないですから、もう習慣みたいなものです」

 かくして63年夏の池永さんは、万全な状態で甲子園に乗り込み、2試合連続完封である。

「連覇しとけば大したもんだったろうねぇ」

 だが「ヘタを打った」と表現するのは、松商学園(長野)戦の7回だ。ヒットで出塁した池永さんは、相手捕手がパスボールし、処理にもたつくのを見ると二塁を回り、果敢に三塁を狙った。ヘッドスライディング。ただ、タッチをかいくぐるためにベースを抱えた左肩に全体重がかかる。左肩脱臼。陸上選手としても、なまじ希有な才能があったからこそのアクシデントだ。

「8回表にマウンドで1球投げたら、痛みがグーッと襲ってきて……治療の時間を取ってもらって、麻酔の注射をうったかな。それでも全然効かん。ただ試合は5対0だったし、マウンドを降りるつもりはなかったですね」

 とはいえ、大ピンチである。なにしろ、キャッチャーからの返球を受けようとしただけで激痛が走る。致命的だったのは、左腕の"かき"が利用できないことだった。となると投球のバランスが狂い、スピードは乗らず、ふつうなら制球も乱れるだろう。だが池永さんは、「スピードはなくても、打球が野手の正面をつけばいい」と、故障後の2イニングも、なんとかゼロに抑えている。

 続く首里(沖縄)戦はさすがに登板を回避したが、準々決勝の桐生(群馬)戦ではふたたびマウンドに立った。前日大阪大に出向いて治療を受け、多少痛みはなくなっていたが、左腕は相変わらず固定したままだ。2点を先取して試合には勝ったが、7回に1点を奪われ、県大会から続いていた連続無失点は67回で途切れることになる。今治西(愛媛)との準決勝も、「やねっこい」相手に手を焼きながら9回裏、3対2のサヨナラ勝ち。そして春夏連覇に王手をかけた決勝は、センバツ初戦で完封勝ちしている明星が相手だ。

 明星の真田重蔵監督は、海草中(和歌山)2年のときに全国制覇を経験し、プロ野球・松竹ロビンスのエースとして50年に39勝。意地がある。雪辱を期し、1回表にいきなり奇襲を仕掛けた。先頭打者が、初球をバント。グラブをはめた左手が使えない池永は、足でこの打球を止めたが内野安打となった。これをきっかけに、守備の乱れもあって2失点。これが重くのしかかり、1対2の惜敗で準優勝に終わった。

「とくに下商は打力のチームじゃないし、当時の高校野球で、2点は大きいですよ。そこからは、痛いも、投げにくいもへったくれもなく、ドロップばっかり投げました。負けた悔しさより、うれしかったのは、ハワイ遠征のメンバーに選ばれたこと。ピッチャーで一番最初に私の名前が呼ばれたとき、スタンドの歓声がものすごい大きかったことは忘れられません」

 下関商は翌年センバツにも出場したが、池永さんは指の腱鞘炎で練習不足だったこともあり、博多工(福岡)に初戦で敗れた。夏は、早鞆に初戦で敗退。池永さんは、3回の甲子園で通算9勝2敗、防御率0・76という数字を残して高校野球を終えることになる。

「最後の夏、周囲は甲子園に行って当たり前と見ていたけど、野球は朝から晩まで勝ち続けることはない。第一、4回も続けて行く必要はないでしょ。正直、ホッとしましたね。県大会をずっと勝ち上がり、また甲子園でも勝ち上がっていくのは大変なことですから。それでも……いま思えば、連覇しとけば大したもんだったろうねぇ」

 過去、甲子園での春夏連覇はのべ8校あるが、2年生エースでの達成は皆無。63年の下関商は山口国体も制したから、春夏連覇なら史上初の高校三冠だった。それでも、2年生エースによるセンバツ優勝と夏準優勝。それだけでも、十分に"大したもん"である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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