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東京六大学野球が明治神宮野球場で行なわれなかったのを知っていますか?

横尾弘一野球ジャーナリスト
グリーンパークで行なわれた東京六大学野球の入場式(立教大学野球部史より)。

 東京六大学野球は、私学5校のリーグ戦に東大が加わり、6校によるリーグ戦が実施された1925年秋から歴史を重ねているが、その舞台である明治神宮野球場は翌1926年に同連盟協力の下で開場し、1931年には同連盟の負担で拡張工事も行なわれた。そうして、現在では全日本大学野球選手権大会も開催されるなど大学野球のメッカとしてもこのグリーンパーク知られるが、終戦直後にはアメリカ軍に接収され、他の球場でのリーグ戦開催を余儀なくされていた時期がある。

 立教大学野球部史によれば、1946年春は上井草球場、秋は後楽園球場で入場式が行なわれており、1951年には多くの試合がグリーンパークという球場で実施されている。あまり馴染みのない球場名だと思って調べると、このグリーンパークは東京都武蔵野市に建設されたものの、開場からたった一年で姿を消しているのだ。

東京六大学野球の舞台は明治神宮野球場だが、1951年春季リーグ戦はグリーンパークの但し書きがある(立教大学野球部史より)。
東京六大学野球の舞台は明治神宮野球場だが、1951年春季リーグ戦はグリーンパークの但し書きがある(立教大学野球部史より)。

 グリーンパーク開場時のパンフレットには『緑の大球場・東京スタディアム』とあり、建設着工が1949年12月初旬、竣工が1950年3月末。収容人員は7万人で、アメリカ式の最新設備を備え、国鉄(現・東京ヤクルト)と巨人の二軍がホームグラウンドにすると記されている。目玉は、国鉄中央線が三鷹駅から分岐して球場前まで乗り入れ、将来は京王井の頭線や西武新宿線の延伸計画もあったことだ。

野球場が一年で消えた驚きの理由とは……

 そんな現代にあったとしてもビッグスケールの球場は、1951年5月5日に華々しい式典とともに開場。それに先立ち、4月14日には武蔵野競技場前と名づけられた新駅と三鷹駅間の運転が開始され、慶立戦が行なわれて慶大が連勝している。

 5月5日の正式開場日に話を戻すと、高松宮殿下がスタンドから記念のボールを投下し、午後1時から国鉄対名古屋(現・中日)、巨人対名古屋の変則ダブルヘッダーが行なわれている。ちなみに、この2試合で本塁打は出なかったのだが、それもそのはず、グリーンパークは両翼91m、中堅128mと当時ではサイズもビッグだった。

 これほど立派な球場が、一年で姿を消してしまったのはなぜか。その理由は、開場2日目の国鉄対巨人を報じた5月7日の新聞記事にある。

『六回からの巨人は第一試合で五回まで投げた別所を登板させたが、このころからセンターからホームに吹く風が強くなり、グラウンドは砂塵もうもうとして褐色のかすみのような中に豪快なゲームが進められた』

 グリーンパークには、途轍もない土埃が舞っていたのだ。しかも、外野スタンドに盛った土は酸性が強く、芝を育てる養分を蓄えていなかった。その外野スタンドをアスファルトで舗装するなど、しばらく整備期間を設けて7月中旬に再開場したが、観客の信頼を回復するには至らず、当時の金額で9500万円を投じた運営会社は倒産してしまう。たった一年と書いたが、実質3か月ほどしか使用されなかったグリーンパークは、通算400勝の金田正一が1勝をマークした球場として歴史に名を残すのみである。

『球跡巡り』山本 勉著(理工図書)
『球跡巡り』山本 勉著(理工図書)

 このように、日本ですでに姿を消した野球場の跡地を、日本プロ野球機構(NPB)で公式記録員を務める山本 勉さんが訪ね歩き、NPBウェブサイトに掲載してきたコラムが一冊にまとめられた。『球跡巡り-球史を刻んだ球場跡地を歩く-』は、特に昭和生まれの野球ファン、野球場フリークにはたまらない内容だ。超近代的ボールパークのエスコンフィールドが北海道で開場するタイミングで、日本の野球史に刻まれた野球場に思いを馳せてみるのも悪くないだろう。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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