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日本シリーズで8回負けた理由とは――日本シリーズ開幕直前に名勝負を振り返る【その3】

横尾弘一野球ジャーナリスト
広島に敗れ、無念の表情を浮かべる西本幸雄(中央)。右はコーチだった仰木 彬。

「江夏の21球」の向こう側――日本シリーズ開幕直前に名勝負を振り返る【その1】

西本幸雄はなぜスクイズのサインを出したのか――日本シリーズ開幕直前に名勝負を振り返る【その2】

 1979年11月4日、近鉄バファローズ対広島東洋カープによる日本シリーズ第7戦は、4対3と広島のリードで9回裏の近鉄の攻撃を迎える。広島の守護神・江夏 豊を相手に、近鉄は羽田耕一の中前安打から無死満塁のチャンスを築く。近鉄の西本幸雄監督は勝利を確信したが、代打の佐々木恭介は空振り三振。一死満塁で、打席には石渡 茂が入る。その2球目、西本はスクイズのサインを出しながら、19年前の日本シリーズを思い出す。大毎の監督として臨んだ第2戦でスクイズを失敗し、その采配を巡ってオーナーと対立。監督を辞任してしまったのだ。そして、歴史は繰り返す。

 江夏はカーブをウェイストし、ボールは石渡のバットの下をすり抜ける。捕球した水沼が三塁方向へ走り、呆然とした表情の藤瀬の背中に強くタッチする。二死二、三塁。西本は、勝利を確信してから僅か数分で「これで広島にいかれたな」と腹を括ることになる。その通り、1球ファウルのあと、江夏の投じた9回裏の21球目で雌雄は決した。

「まぁ、この場面については色々と書かれてきたけど、水沼君が引退してから解説の仕事で会う機会あった。あの時のサインはカーブ。藤瀬のスタートがやや早かったので水沼君が立ち上がると、見事なまでに江夏のカーブがそこへ来たと言っていたな。スクイズを外す時はストレートがほとんどだから、石渡もストレートのタイミングでバットを出している。だから腕が伸び切ってしまって、バットに当てることができなかったんだろうね。あとは気持ちの問題。私が3つのストライクを狙えと指示したのにスクイズを命じたから、ちょっと面食らっちゃったのかもしれないね」

 27分間にもおよぶ攻防がクライマックスを迎えた時、雨は激しくなっていた。7度目も天下獲りが叶わなかった西本だが、今度は“腹切り”になることはなく、翌1980年もパ・リーグ覇者として広島へのリターンマッチを挑む。ここでは3勝2敗と王手をかけたものの、広島の猛烈な反撃に圧倒され、この試合のような見せ場を作ることなく連敗。またも3勝4敗で辛酸をなめた。そして、1981年に投打の歯車が噛み合わず最下位に沈むと、自ら20年間に渡る監督生活に終止符を打った。

「阪急の監督を任されて選手を見た時は、優勝を狙うチームの選手に比べて基礎体力が決定的に劣っているのを感じた。だから、サーキット・トレーニングのようなものまで導入して徹底的にしごいた。選手たちから総スカンも食らったけど、こっちも信念を持ってぶつかった。初年度は最下位だったが、2年目は2位。これは本当の力じゃないんだけど、選手は自信を持って戦うようになる。つまり、意識革命が起きるわけ。あとは気持ちよく野球をやらせてあげればいい。それが1967年からの3連覇、1年置いてまた2連覇につながった。1974年から近鉄に移った時は、『このオッサンの言うことを聞けば、強くなるんとちゃうか』という空気は感じた。やり方は阪急の時と同じ。最初は5位だったけど、選手が同じ方向を見て戦った2年目は2位。これで意識が変わり、徐々に地力をつけていった。どちらも優勝なんてできるはずがないと言われたチームだったのに、阪急で5回、近鉄でも2回、勝利の美酒に酔えた。そうやって、選手とともに脇目も振らずに走って来たら、61歳になっていた。大監督と言われた水原 茂さん、三原さんは62歳、鶴岡一人さんも58歳で監督業から足を洗っていたし、自分もそろそろかなという思いがあってね。闘志は衰えていなかったが、それ以上の満足感と充実感があったかな」

 かわいい教え子とともに汗を流したころを回想する時、西本は柔和な表情を見せ、身振り手振りを交えて少し早口になった。そんな西本に、最後にひとつだけ聞きたい。あなたは、なぜ日本シリーズで8回とも敗れたのか。

「一番の大きな理由は、対戦相手が立派なチームだったということ。あとはね……私という人間の甘さですよ。私は、子供の頃から人前で話すのが苦手だった。いや、その性格はずっと変わらん。そんな人間が、プロ野球で監督なんぞ務まるわけがない。それが情熱だけを支えにやったら、選手たちがついてきてくれた。そして、一緒に弱いチームを強くした。日本シリーズでは、もちろん毎回勝ちたかった。でもね、心のどこかに『もしシリーズで敗れても、この選手たちとともに勝ち取ったリーグ優勝の価値が消えるわけじゃない』という気持ちもあったんだよね。

 私は、そういう甘い人間なんです。同じベンチにいると、そんな監督の心が選手にも乗り移ったんじゃないかな。『悲運の名将』とか言われるが、悲運であれ何であれ、そんな男を名将と言ってくれるだけで光栄だよ(笑)」

 1979年の日本シリーズは、ファンやメディアに今ひとつ地味な印象を与えながら、第6戦まで淡々と進んだ。ところが、最終戦、殊に9回裏の攻防のドラマによって、球史に色濃く刻まれることになる。その主人公は江夏だが、それを苦しめる敵役が西本の率いるチームだったことでストーリーは厚みを増し、多くの人々の感動を呼んだのではないだろうか。そうして、すべてを語り終えた西本の穏やかな笑顔を見た時、野球の神様が西本幸雄という男に『悲運の名将』という役回りを与え続けた理由も、少しわかったような気がした。

(写真=K.D. Archive)

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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