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「父の苦労が生かされている」東京五輪を集大成に、ウエイトリフティング・三宅宏実の覚悟

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
リオデジャネイロ五輪で銅メダルを獲得した三宅宏実(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 父は1968年メキシコシティ五輪銅メダリストにして、現在は日本ウエイトリフティング協会会長を務める三宅義行氏。伯父は60年ローマ五輪銀、64年東京五輪金、68年メキシコ五輪金の三宅義信氏。世界に名だたるウエイトリフティング一家に生まれた三宅宏実(34=いちご株式会社所属)の経歴は華麗だ。五輪には女子48キロ級に4度出場し、12年ロンドン五輪銀メダル、16年リオデジャネイロ五輪で銅メダルを獲得している。

 7月24日は、東京五輪で女子49キロ級(※今回から変更)の試合が行われる365日前。5度目となる五輪で3大会連続メダルを目指す三宅が、ベテランならではの揺れる思いと、再び東京五輪に向かって立ち上がった理由を語った。

■「つらい」……五輪延期の知らせに2日間、涙が止まらなかった

4年に一度の五輪に合わせ、本番から逆算して毎日のスケジュールを立ててきた三宅宏実。1年の延期はそれが崩れるつらさがある(撮影:藤田孝夫)
4年に一度の五輪に合わせ、本番から逆算して毎日のスケジュールを立ててきた三宅宏実。1年の延期はそれが崩れるつらさがある(撮影:藤田孝夫)

 東京五輪の1年延期が決まった3月24日。三宅は涙に暮れた。

「4年 に一度の五輪に合わせてずっとやってきていた中での延期。34歳という年齢を思うと、あと1年は長い。気持ちが切れてしまいました」

 2日間は涙が止まらなかった。

「練習をやりたくない」「つらい」「休みたい」

 指導者である父にこぼした。

「ダメだ。試合があるかもしれないし、何があるか最後までわからない。今は練習を休ませることはできない。頑張ろう」

 その時期は、延期が決まっていたアジア選手権(五輪選考会)がどのタイミングで行われるか、不透明だった。とりあえずは練習に行くことから始めると、徐々に気持ちが変化していった。

「父も『休ませられない』と言うのはつらかったと思います。それに、世界を見れば五輪を開催できる状況ではなく、延期はベスト。複雑な思いはありましたが、悩んでいても時間がもったいない。ただ、コロナのような想定外のことも起きるし、来年の五輪も絶対ではありません。いつ終わりがきてもいいように準備をしておかなければならないと思いました」

 緊急事態宣言で各競技の強化拠点であるナショナルトレーニングセンターを使えなかった時期に、埼玉県の実家でトレーニングをしたことも気持ちの切り替えに役立った。実家での練習は、競技を始めたばかりだった高校生の時以来で、新鮮だった。

「バーベルを勢いよく下ろしたら床が抜けてしまうので、緊張感があるんです。でもそれがまた良い練習になって。上げるのと下ろすのとで、1回で2回分の練習になる。家族との時間も含めて、良い時間を過ごせました」

■4大会連続出場の陰にあった父の存在

競技開始から3年あまりでアテネ五輪に出場した(撮影:藤田孝夫)
競技開始から3年あまりでアテネ五輪に出場した(撮影:藤田孝夫)

 中3まではテニス部に所属。00年シドニー五輪のウエイトリフティングを見て感動し、競技を始めた。手ほどきの段階からつねに父が道筋を示してくれた。

 埼玉栄高校に入ってからは、土日も返上して猛練習した。若く、吸収力満点の少女は、豊富な練習量と的確な指導で日進月歩の成長をとげた。記録はみるみると伸び、競技開始からわずか3年あまりで、04年アテネ五輪に出場した。

「アテネに出られたのは父のお陰です。私が初めて五輪に出たのは、父が初めて五輪を目指した時と同じ法政大学1年生の時。19歳の時に64年東京五輪の代表になれなかった父は、絶対的な練習量が足りなかったからだと考え、その経験を私の指導に生かしてくれたのです」

 三宅が言うように、父の義行氏は、64年東京五輪から76年モントリオール 五輪まで四度チャレンジしたが、五輪に出たのは68年の一度だけだった。

「父は、その間の世界選手権で表彰台を外したことがないのに、五輪だけは一度しかピークを合わせることができなかったと言います。4年に一度という五輪のリズムに合わせるのがいかに難しいかを知り尽くしています。その苦労が私に生かされている。父なしで五輪に行くことはできませんでした」

 義行氏は自らの足で踏みならした道を娘に用意し、岐路に立ったときは正しい選択肢を示した。だからこその父娘五輪出場、父娘メダル。絆は強い。

■「私が東京五輪を目指すのは何かの縁。この先に繋げたい

目元や口元に父・義行さんの面影がある。父と同年代の人から声を掛けられることも少なくない(撮影:藤田孝夫)
目元や口元に父・義行さんの面影がある。父と同年代の人から声を掛けられることも少なくない(撮影:藤田孝夫)

 五輪一家ならではの経験がある。ときおり、街中で父と同年代の人から声を掛けられることがあるのだ。

「三宅さんのお嬢さんでしょ」「僕も昔は真似をして、箒(ほうき)を持ち上げたりしたんだよ」「あの頃はすごい人気だった」「頑張ってね」

 敗戦から立ち上がり、復興を終えて右肩上がりに成長していた時代の日本。「64年東京五輪の時代」を生きていた人たちの人生には、あの時の高揚感が今なお息づいている。

「64年の東京五輪を見た方たちは、それから五十年以上たっても、いまだにその光景を記憶にとどめ、父たちのことをずっと忘れないでいてくれている。それは私にとってもうれしい ことです。来年の東京五輪を私が目指しているのは何かの縁。私が父たちから引き継いできたものを、この先に繋げたいです」

 

■「気づいたら30歳を超えていた」東京を最後の舞台にする決意

初出場だったアテネ五輪の頃からつねに「結婚願望があったけど」と微笑む三宅宏実(撮影:藤田孝夫)
初出場だったアテネ五輪の頃からつねに「結婚願望があったけど」と微笑む三宅宏実(撮影:藤田孝夫)

 19歳で初めてアテネ五輪に出た頃には考えてもいなかった人生を歩んでいると言う。

「ここまで続けられるとは自分自身思っていませんでしたね。アテネが終わった時は『次の五輪が終わった頃には結婚したいな』と思っていたんです。でも、北京の後は『次はメダルを取りたいからもう一度出たい。それぐらいが適齢期でしょう』と……。そして、いざロンドンが終わったら今度は金メダルを獲りたくてリオへ向かっていて、気づいたら30歳を超えていました。五輪があることで結婚がどんどん延びています」

 三宅はにこやかな表情で言う。色白で黒目がち。物腰は柔らかい。

「五輪にはそこでしか感じられない魅力があります。何より応援してくれる人に喜んでもらえることがうれしい。でも、東京じゃなかったら、もう引退していましたね。東京だからこそ出たい。そう思ったのです」

 三宅は東京大会を最後の五輪とすることを決めている。

「今の一番の目標は、テクニックをもっと磨きたいということです。ベストを更新して、強いままで去りたい。せっかくいただいたこの1年はボーナスです。それをどう使うかで未来は変わってくると思っています」

 21年7月24日、東京国際フォーラムの試合会場に立っている自分を思い浮かべながら、三宅はこう言った。

「皆さんに格好良くて逞しい姿を見せられているといいです。今、つらい思いをしている選手もたくさんいると思いますし、あと1年は長いと引退される選手もいます。その中で、私はまだ気持ちだけは残っている。最後は自分自身が楽しんで、生き生きしながら東京五輪に向かいたいです」

(画像制作:Yahoo!ニュース)
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【連載 365日後の覇者たち】  1年後に延期された「東京2020オリンピック」。新型コロナウイルスによって数々の大会がなくなり、練習環境にも苦労するアスリートたちだが、その目は毅然と前を見つめている。この連載では、21年夏に行われる東京五輪の競技日程に合わせて、7月21日から8月8日までの19日間にわたり、「365日後の覇者を目指す戦士たち」へエールを送る。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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