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「僕だけメダルがなかった」リオ五輪旗手の右代啓祐 十種競技の表彰台に懸ける思い

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
リオデジャネイロ五輪開会式で日本選手団の旗手を務めた右代啓祐(写真:ロイター/アフロ)

 吉田沙保里や福原愛、井上康生など、名だたるアスリートが務めてきた五輪の旗手。開会式で選手団の行進を先導するその大役を2016年のリオデジャネイロ五輪で担ったのが、陸上十種競技の右代啓祐(うしろ・けいすけ=国士舘クラブ所属)だ。

 競技では力を出し切れず、リオ五輪は右代にとって苦い記憶だ。しかし、他方でそれは右代が東京五輪で「必ずメダル獲得」を目指す原動力にもなった。勝者が"キング・オブ・アスリート"とも呼ばれる陸上十種競技。日本のパイオニアである右代は、東京五輪に向けて、いま何を思うのか。1年延期された開会式の365 日前となる7月23日に合わせ、胸の内を語ってもらった。

■旗手抜擢の連絡を受けたのは「夢の国」

 4年前のリオ五輪。日本選手団の旗手に抜擢されたという連絡を受けたのは、家族で東京ディズニーランドを訪れ、束の間の休日を楽しんでいた時 だった。

「夢の国で夢のような話を頂いた。こんなに名誉な仕事をさせてもらうことは、この先ない。『やらせて下さい』と即答しました」

 過去に日本選手団の旗手として選ばれてきた顔触れには人気選手や金メダル候補がズラリと並ぶ。1996年アトランタ五輪が田村亮子(柔道)、00年シドニー五輪は開会式が井上康生(柔道)、閉会式は高橋尚子(陸上マラソン)、04年アテネ五輪は浜口京子(レスリング)、08年北京五輪は福原愛(卓球)、12年ロンドン五輪は吉田沙保里(レスリング)。最終的には全員がメダリストになっている。

 リオ五輪の開会式では、華々しい演出に世界が酔いしれる中で選手団の行進がスタートした。右代は近くにいたジャマイカの旗手、シェリー=アン・フレーザー=プライス(北京五輪、ロンドン五輪の陸上女子100mで2連覇)と控えエリアで談笑を交わした後、マラカナン競技場を行進した。

 各国の旗手の顔触れは米国が競泳男子のマイケル・フェルプス。スペインはテニス男子のラファエル・ナダル…。身長196センチの右代も堂々たる行進だった。

「本当にすばらしい開会式でした」。右代は感慨深げに振り返る。

 短距離種目の100mから中距離の1500m、跳躍種目の走り幅跳びや走り高跳び、投擲(てき)種目の砲丸投げややり投げなど合計10種目を2日間で行い、その記録を得点に換算し、合計得点で競うのが十種競技。勝者は「キング・オブ・アスリート」と呼ばれる過酷な競技だ。

 五輪では大会の終盤に十種競技が行われる。右代が試合に出たのは開会式から約2週間後。セレモニーの高揚感もエネルギーにして準備をしてきたが、結果は自己ベストより約400 点低い7952点で20位。初出場だった12年ロンドン五輪と同じ順位で、納得のいく結果を残すことはできなかった。

 無理もない。五輪2カ月前に練習中のアクシデントで左手親指付け根を骨折し、手術を受けていた。埋め込んだボルトが残ったままでは、さすがに力を発揮できなかった。

2019年ドーハ世界陸上選手権での右代啓祐。世界選手権には5大会連続出場中(撮影:藤田孝夫)
2019年ドーハ世界陸上選手権での右代啓祐。世界選手権には5大会連続出場中(撮影:藤田孝夫)

■リオ五輪後の帰国会見、「メダルを持っていないのは僕だけだった」

 悔しさを抱えながら参加したリオ五輪の閉会式。開会式に続いて旗手を務めた右代は、安倍晋三首相がスーパーマリオの衣装を着て地面からせり上がって来るサプライズ演出を目の前で見ながら、「4年後にはメダルを獲りたい」との思いを高ぶらせて帰国の途に就いた。

 閉会式の2日後に、選手団は無事に帰国。飛行機を降りたところで、選手たちは2つのグループに分けられた。

 旗手である右代は、メダルを獲得した選手や主将を務めた吉田沙保里と一緒に、会見場に向かった。そこには大勢のメディアが待ち受けていた。

 リオ五輪で日本選手団は過去最多となる41個のメダル(金12、銀8、銅21)を獲得していた。周りを見回すと、メダルを持っていないのは右代だけだった。

「あの時、僕はメディアの方から五輪の感想を質問されて、泣きそうになったんです。その場にいるみんながメダルを持っていて、笑顔の人もいれば、メダルを獲っているのに悔しそうなコメントをする人もいる。その中で僕は何も持っていない。今でも忘れやしません。僕はずっと唇を噛みしめていたんです」

 この時ときだった。

「東京五輪では、なんとしてでもメダルを獲りたい」

 リオで芽生えた目標は、帰国会見でこらえた涙が油となり、真っ赤な炎となって燃え上がっていった。

■7月24日に34歳、ベテランの工夫で「体の若返り」に手応え

 リオ五輪ではケガの影響もあって順位は振るわなかったが、記録に目を向ければ、ロンドン五輪の7842点より向上しており、成長しているという実感もあった。そして何より、「次はメダルを」という強固な意志が確立している。

 リオ五輪後の右代は、アスリートとしては円熟の年齢である30代に入ったこともあり、20代の頃とは違うアプローチで、記録更新を目指すようになった。以前はがむしゃらなトレーニングをしていたが、食事や睡眠など、練習以外のところに重きを置いて一日を過ごすようになった。さらには、定期的に血液検査を行って自分の体の状態を把握するなど、細部にも目を向けるようになり、「最近は若返っているという実感がありますよ」と笑顔を見せている。

 記録が向上しているという手応えは十分。だからこそ、五輪の延期が決まった時ときは、少なからずショックを受けた。

「20年夏に向けて緻密に逆算をしながらやってきた4年間でしたから、ショックは大きかったです。ただ、世の中の状況を見ていると、そんなことを言っていられない。それならば、自分の中で温めていた技術の向上に取り組もうと切り替えることができました」

 五輪でメダルを獲るには8600点が目安になる。右代の自己ベスト(日本記録)である8308点は6位くらいに相当するため、東京五輪で表彰台に上がるには、あと300点の上積みが必要だ。

「東京五輪までに到達しておくべき目標は、14年から5年間破っていない自分の日本記録を破ること。出場予定の東京陸上競技選手権(7月23日~26日=駒沢競技場)では、1種目でもベストを出して、コロナに打ち勝ったことを証明したい」と意気込んでいる。

2人いるお嬢さんの話題になると柔和な笑みが絶えない(撮影:矢内由美子)
2人いるお嬢さんの話題になると柔和な笑みが絶えない(撮影:矢内由美子)

■東京五輪はチケットも当選済み。娘たちの記憶に勇姿を刻みたい

 1年延期で楽しみが増えた部分は他にもある。右代には14年に生まれた長女と、17年12月に生まれた次女がいるのだが、リオ五輪の時は長女が2歳とまだ幼かったため、家族は日本でテレビ観戦。長女の記憶の中にパパの勇姿は残っていないという。

 ところが東京五輪が1年延期になったことによって、今度は長女が7歳、次女は3歳8カ月という年齢で本番を迎えることになる。右代家では、既に十種競技が行われる日の陸上競技のチケットに当選済み。21年8月なら、長女はもちろん、次女もパパの勇姿を記憶に刻んでくれそうだ。

「五輪は暑い時期ですから、子供の体力的にも2歳より3歳になっていた方がいいですよね。右代家に関しては、かなり追い風かなと思っています」

 優しく目を細める右代に、東京五輪までの日々をどのように過ごしたいかを尋ねると、表情を引き締めてこう言った。34歳で記録を向上させるのは一般的には至難の業と見なされるが、年齢との闘い戦い にも敢然と立ち向かおうとしている。

「東京五輪は目指している頂点の部分です。目標が叶った未来を意識し続けて、せっかくいただいたこの1年間の猶予を、誰よりも存分に使い、アスリートとしての成長に繋げたいです」

 日本人で五輪の十種競技に出たのは、64年東京五輪の鈴木章介と右代の2人のみ。参加標準記録を突破して五輪に出たのは右代だけだ。自身3度目となる五輪でメダルを目指すパイオニアは、「キング・オブ・アスリート」への道を見つめている。

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【連載 365日後の覇者たち】  1年後に延期された「東京2020オリンピック」。新型コロナウイルスによって数々の大会がなくなり、練習環境にも苦労するアスリートたちだが、その目は毅然と前を見つめている。この連載では、21年夏に行われる東京五輪の競技日程に合わせて、7月21日から8月8日までの19日間にわたり、「365日後の覇者を目指す戦士たち」へエールを送る。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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