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浦和のフラッグも呼び水に。「4年間が詰まった」原口元気のゴール

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
ベルギー戦の後半3分に先制点を決めた原口元気(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

■ゴールの向こうに浦和の旗が

 自陣のバイタルエリアで乾貴士が相手ボールをインターセプトし、中央の柴崎岳にパスを出そうとした瞬間だった。それまでベルギーの攻撃に備えて守備態勢に入っていた原口元気は、右サイドで猛ダッシュを開始した。

 ロシアW杯決勝トーナメント1回戦ベルギー戦。後半が始まって間もない48分、原口が自らに入れたスイッチは日本代表が新たな一歩を踏み出すためのスイッチでもあった。

 柴崎岳の鋭いスルーパスが、ベルギーDFフェルトンゲンの足をかすめながらもスペースへ抜けていくと、右サイドからペナルティーエリア内に猛然と走り込んだ原口の足元へ。

「最初は切り返そうと思った。でも、相手がガッツリくる気配がなかったので、切り返さずに止まった」

 原口の急なストップ動作にフェルトンゲンはついて行けず、体勢を崩す。すかさず右足でグラウンダーのシュートを打った原口。すると、強豪チェルシーの守護神であるGKクルトワの横っ飛びもかなわず、ファーサイドにファインゴールが決まった。日本にとって3度目の決勝トーナメント進出にして初めての得点。奇しくもゴール裏には原口が育成組織時代から約10年間所属した浦和レッズの赤いフラッグが掲げられていた。その旗に導かれるように、シュートは決まった。

 ゴールが決まると原口は一目散にベンチへと向かった。待ち受けるチームメートたち。原口は真っ先に槙野智章のもとへ行き、飛びついた。メンタル的にまだ幼かった浦和時代、ピッチ内外で面倒をみて、成長を促してくれた1人が槙野だった。

ゴール裏に張られた浦和のフラッグ(中央)。原口のシュートはこのゴールに決まった(撮影:矢内由美子)
ゴール裏に張られた浦和のフラッグ(中央)。原口のシュートはこのゴールに決まった(撮影:矢内由美子)

■長所を磨き、個の力をつけた

 日本はその4分後に乾貴士のゴラッソで2-0としながらも、2-3の逆転負けを喫した。敗退直後は悔しさから涙を流していた原口だったが、一夜明けての取材対応では、誇らしげな原口の姿があった。

「ゴールに関しては、自分で言うのもなんですが、狙い通り。W杯がどういうものになるのかということをイメージしながらトレーニングを始めたときから逆算したものが出た」

 浦和時代から原口はコンビネーションプレーよりも「個」の力でゴールを獲っていく選手だった。

 そんな原口が個の力をもっと高めたいとの思いで“走りの改革”に挑戦し始めたのは、浦和に所属していた14年2月のことだ。筑波大学体育専門学群の谷川聡准教授の元を訪ね、「ハイスピードで長い距離を走った後に質の高いプレーをする」ためのメニューに取り組んだ。

 それは同年7月にブンデスリーガのヘルタ・ベルリンへ完全移籍した後も、そしてデュッセルドルフに期限付き移籍した後も変わらず続いた。

 スプリント・トレーニングは段階を経て行われた。14年のスタート時に最初に目指したのは「止まる」こと。原口によるとこれだけで2年半近くの月日を費やした。

「僕としては最初から『速くなりたい』という気持ちが強かったのですが、(谷川)先生によると、速くするのは簡単だけど、それではスピードが出たときに止まれなくなってケガをする。まずはケガをしないような体を作るのに2年半かかったんです」

 純粋に前に出て行くための、縦のスピードを出すトレーニングを始めたのは16年6月だ。「前への推進力が自分の良さなので、その良さをここからどんどん出していきたい」

 すると、その3カ月後の16年9月から11月にかけ、原口はW杯アジア最終予選での4試合連続ゴールという日本代表史上初の記録をつくった。

 こうして掴み取ったロシアW杯切符とW杯メンバーの座、先発の座、夢舞台での得点。ベルギー戦の翌日、原口は谷川准教授とすでに連絡を取ったことについても触れながら、「あのシーンは、60mくらいスプリントした後に相手と駆引きをして、止まって、その後ちゃんとバランスを崩さずに、思ったように行けた。先生と、あのシーンは4年間トレーニングしてきたことだなと話した。やってきたものが詰まっていたゴールだった」

カザンでのトレーニング。原口元気は浦和時代からサポートしてくれていた槙野智章(右)とリラックスムードでランニングすることも多かった(撮影:矢内由美子)
カザンでのトレーニング。原口元気は浦和時代からサポートしてくれていた槙野智章(右)とリラックスムードでランニングすることも多かった(撮影:矢内由美子)

■大会前には「8強」を目標としていた原口。カタールで実現へ

 原口は4年後の22年カタールW杯に向けて、「フィジカル的にはもっと伸びるし、技術的にも向上しないといけない。気持ちの部分でも、自由にハードに戦うのではなく、もっとチームのことを考る立場になっていきたい」という。

 27歳にして初めて出たW杯で感じたものは何か。

「大会規模にはビックリしたけど、プレー(のレベル)は自分がイメージしたとおりだった。今まで準備してきたもので十分に自分の力を出すことができた。もちろん足りないことがあるけど、それはこの4年で補っていけばいいし、必ず補えると思う」

 日本はグループリーグ初戦となるコロンビア戦の2日前である6月17日、選手だけのミーティングを行い、23選手全員が「目標」や「思い」を語った。原口がそこで言ったのは「ベスト8」だった。

 意味合いとしては大会前の成績が芳しくなかったことで、「現実的でありなおかつ史上最高の成績」を掲げたのだという。そして今、4年後のカタールW杯に向けては、目標のリミットを頂点に置きたいという気持ちが芽生えている。

「W杯はめっちゃ楽しかった。毎日ワクワクしていた。サッカーも試合もすごく楽しかった。できればもう1試合やりたかった。それだけが悔い」。

 すでに4年後を見据えている原口。「もう1試合」の夢はカタールで叶える。

遠藤航(左)は原口が去った後の16年に浦和入り。トレーニング前のアップでは2人が絡むシーンも多かった(撮影:矢内由美子)
遠藤航(左)は原口が去った後の16年に浦和入り。トレーニング前のアップでは2人が絡むシーンも多かった(撮影:矢内由美子)

埼スタで誓ったロシアW杯。原口元気と槙野智章がかなえる夢

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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