昨年の秋、フェイスブックを通して一通のメッセージが私のもとに届きました。

 柳原さん、僕の息子も高校生のとき交通事故に遭いました。以来、自分で動かせない身体になり、痛いも、かゆいも、言うことができません。

 あんなに食べることが好きだった子が、食べることもできなくなってしまって、あの日から9年以上、意識障害で寝たっきりです。

 差出人は、大阪の泉佐野市に住む坂本清市さん(55)です。

 私が返信すると、今度は被害者の父としての割り切れぬ胸の内を綴ったメールが送られてきました。

 民事裁判はそれなりに和解し、賠償はされました。でも、無謀な運転で息子をあのような身体にした加害者は、見舞いに来るどころか、10年が経とうとする今も謝罪ひとつありません。これでいいんでしょうか……。

 息子は今も意識がないのですが、いつか立てる日が来るようにと、週に一度は病院へリハビリに通い、上体を起こしたり、歩かせていただいたりしています。ぜひ一度、頑張っている息子の姿を、取材していただけないでしょうか。

 そのメールには、身長180センチを超える背の高い息子さんが、病院で懸命にリハビリを受けている動画(下)が添付されていました。

■突然の事故で植物状態になった我が子

 事故が起きたのは、今から9年半前、2011年9月11日、午後9時半ごろのことでした。

 坂本さんの次男・裕貴さん(当時18)が、大阪府泉南市中小路の国道交差点を400ccのバイクで直進中、突然右折してきた対向車が衝突したのです。

 頭を強く打った裕貴さんは、すぐに、りんくうタウンにある救命センターに搬送されました。

事故現場交差点。裕貴さんのバイクは手前から青信号で直進。対向の加害車は写真中央の車のような角度で急な右折をしてバイクに衝突した(筆者撮影)
事故現場交差点。裕貴さんのバイクは手前から青信号で直進。対向の加害車は写真中央の車のような角度で急な右折をしてバイクに衝突した(筆者撮影)

 2日前、18歳の誕生日を迎えたばかりの高校3年生。将来は作業療法士を目指し、進学を希望していたリハビリテーション大学のAO入試の筆記試験を終えたところでした。

 母親の智恵美さん(55)は、その日のことを振り返ります。

「息子と一緒にいた友人から電話で事故の知らせを受け、すぐに夫婦で病院に駆けつけました。救命救急センターの入り口のところで、裕貴が救急車から病院の中に運ばれていく姿がほんの少しだけ見えました。今もはっきり覚えています。手術前に医師から説明を受けました。『命は助かっても、この先ずっと意識が戻る可能性はないと思ってください』そう言われて……その後のことはほとんど覚えていません」

 裕貴さんは脳挫傷、急性硬膜下血腫など、頭部に大きなダメージを受けていました。緊急手術で一命はとりとめたものの、意識は戻らず、遷延性(せんえんせい)意識障害(いわゆる植物状態)という重い後遺障害を残すことになったのです。

だんじり祭りが大好きだったという裕貴さん。青年団に入って1年目、16歳のとき、だんじりの曳き綱の先頭で綱を張る役目である「綱先」を担当していた(坂本さん提供)
だんじり祭りが大好きだったという裕貴さん。青年団に入って1年目、16歳のとき、だんじりの曳き綱の先頭で綱を張る役目である「綱先」を担当していた(坂本さん提供)

「だんじり祭りが大好きな裕貴は、あの日、朝からだんじり小屋の掃除に行きました。帰ってきてから、自分の部屋でパソコンに向かっていたので、私が食パンを焼いて持っていくと、ぺろりと食べました。事故は、その数時間後に起こったのです」

 智恵美さんから送られてきたこの写真は、裕貴さんの現在の部屋を写したものだそうです。

裕貴さんの部屋は、10年経った今も事故の日のままだ(坂本さん提供)
裕貴さんの部屋は、10年経った今も事故の日のままだ(坂本さん提供)

「あのとき、パンをのせていたお皿は、事故から10年目となった今年もパソコンの前にそのまま置いてあります。前日に脱いだ靴下も、ゴミも、どうしても片付けることができず、裕貴の部屋はあの日から時間は止まったままです。裕貴が元気なときの声、面影……、時がたつにつれ、あの頃の思い出を忘れてしまうのではないかと不安でいっぱいになるのです」(智恵美さん)

■遠方の療護センターに入所。家族離れ離れの日々

 事故から2か月後、意識の回復が見られぬまま救命救急センターを退院した裕貴さんは、交通事故による脳損傷被害者専門の病院である「岡山療護センター」に転院。大阪の自宅からは遠く、通うことができないため、母親の智恵美さんが岡山にアパートを借り、裕貴さんに付き添うことになりました。

 自宅には、夫の清市さんと裕貴さんの兄が残り、それから約3年間、家族離れ離れの生活を強いられることになったのです。

 智恵美さんは遠く離れた岡山で、毎日療護センターに通い、裕貴さんに声掛けをして、リハビリのサポートを行いました。

 しかし、多くの友達に囲まれ、人一倍明るく、元気だった我が子の人生を壊した突然の出来事を、すぐには受け止めることはできなかったと言います。

「買い物に出かけて、裕貴の好きだったフライドポテトやチキンなどを見ると、悔しくて、悲しくて、その場で涙が出てくることが毎日のようにありました。裕貴は青信号で直進していただけです。無茶な運転はしていないし、スピードを出して走っていたわけでもない、なのに、なんで……。療護センターで車椅子を押しながら施設内の庭を散歩しているとき、『このまま外に出て、二人で死のうか』と何度思ったことでしょう。そんな苦しい日がずっと続きました」

事故によって卒業は叶わなかったが、裕貴さんは事故から3年後、通っていた高校から「奮励賞」を授与された。その日のことを伝える「毎日新聞」記事(坂本さん提供)
事故によって卒業は叶わなかったが、裕貴さんは事故から3年後、通っていた高校から「奮励賞」を授与された。その日のことを伝える「毎日新聞」記事(坂本さん提供)

■刑事裁判の法廷では「反省の情」を示した加害者だったが…

 加害者は事故当時22歳の男性で、運転免許を取ったばかりの初心者でした。

 この日は幼馴染の友人を助手席に乗せて遊びに行っており、前方から裕貴さんのバイクが近づいてきているにもかかわらず右折をし、衝突事故を起こしたのです。

 裕貴さんが乗っていたバイクは、大きな衝撃を受け、フロントフォークが完全に折れていました。

事故直後、現場に転倒する裕貴さんのバイクはフロントフォークが完全に折れていた(坂本さん提供)
事故直後、現場に転倒する裕貴さんのバイクはフロントフォークが完全に折れていた(坂本さん提供)

 自動車運転過失傷害で起訴された加害者の刑事裁判は、事故の翌年、大阪地裁岸和田支部で開かれました。

 被告人として法廷に立った加害者は、

「本件事故により被害者の方とそのご家族が大変な状態に陥ったことについては、大変申し訳なく思っています」

 と言い、次のように謝罪と反省の気持ちを述べたそうです。

「この裁判が終わった後もお見舞いに行かせてもらうなどして、一生にわたって、被害者の方と家族に対して誠心誠意対応します。自分の刑を軽くするためにこのようなことを言っているのではありません

今後、運転免許を一切取りません。運転自体怖くなり、二度と車を運転したくないという気持ちがあります」

 裁判官は、「被告人の刑事責任は比較的重いというべきである」としていましたが、こうした反省の態度を考慮し、「実刑に処するのが相当であるとまでは言えない」として、2012年10月9日、禁錮2年 執行猶予3年の判決を下したのです。

 しかし、父親の清市さんは、憤りを隠せない様子で語ります。

「実は、刑事裁判で加害者が述べたこれらの言葉は、今も何ひとつ実行されていません。先日、彼のSNSや出演しているTV番組を見たのですが、商売で莫大な利益を上げて悠々自適で豪遊し、車も所有しているようです。裁判官は法廷で加害者が発した言葉だけで十分に反省していると判断し、執行猶予判決を下しましたが、今も納得できません。一番悔しいのは裕貴だと思います。18歳で残りの人生を奪われ、こんなに苦しんでいるというのに、一度の見舞いも、謝罪もないのですから」

 自身の刑を軽くするための、口先だけの誠意や反省。こうした加害者の「不誠意」が、かえって被害者と家族の苦しみを増幅する……。

 まさに、10年という歳月を経て、見えてくる理不尽といえるでしょう。

デイサービスを受け、スタッフと共に帰宅した裕貴さん(筆者撮影)
デイサービスを受け、スタッフと共に帰宅した裕貴さん(筆者撮影)

■介護専用の家を建て、家族で24時間在宅介護の日々

 療護センターの入所期限は3年です。その期間が満了すれば、次の病院や施設を探さなければなりません。

 しかし、今の日本では、裕貴さんのような若年の要介護者を受け入れてくれる施設は少なく、なかなか難しいのが現状です。

 そこで、坂本さんは自宅正面の空き地を購入し、2014年、裕貴さんを介護するための設備を備えた小さな家を建てました。

 家の中は車いすで移動できるようバリアフリーで、お風呂にはリフトも完備されています。

 現在、介護ヘルパーやデイサービスも利用していますが、夜はヘルパーの資格も持つ母親の智恵美さんが裕貴さんのベッドの横に付き添い、24時間の在宅介護をこなしています。夜中も定期的な痰の吸引が必要なのです。

 兄の凌一さん(30)も弟の事故をきっかけに東京での就職を断念し、介護福祉士の資格を取りました。そして、両親の負担を少しでも減らすため、時間の許す限り裕貴さんの介護を手伝っています。

弟の事故をきっかけに介護福祉士の資格を取った兄の凌一さん。両親を助け、献身的な介護を行っている(筆者撮影)
弟の事故をきっかけに介護福祉士の資格を取った兄の凌一さん。両親を助け、献身的な介護を行っている(筆者撮影)

 父親の清市さんは語ります。

「私たちの朝は、裕貴の身体の清拭、服の着替えから始まります。裕貴は身長183センチ、身体が大きいので、脱力していると片足を上げるだけでも大変です。普通の家庭にはゆっくりできるお休みの日があると思いますが、私たち家族は365日、ずっと同じ時間に、同じことの繰り返しです。休みはありません」(清市さん)

 それでも、清市さんが休みの日には、裕貴さんのために購入した車いす用のリフトが装備されたワゴン車で日帰りのドライブに出かけ、できるだけ外の空気を吸うようにしていると言います。

父親の清市さんは、裕貴さんとのドライブをFacebookで明るく報告している(筆者撮影)
父親の清市さんは、裕貴さんとのドライブをFacebookで明るく報告している(筆者撮影)

■「親なき後」の準備をどのように整えるか

 裕貴さんの回復を願い、懸命に寄り添い続けてきた坂本さん夫妻が、今一番心配しているのは、自分たちが年老いて先に倒れてしまったときのこと、つまり「親なき後」の問題だと言います。

「私たちがいつまで裕貴の世話ができるか、この先、裕貴だけになったらどうなるんだろうかとか、最近はそんな心配ばかりが頭をよぎります。長男は本当に弟思いでよくやってくれますが、彼だけに負担をかけるわけにはいきません。全国各地に、グループホームを作っている親御さんがおられるようなので、私たちもいろいろ勉強しながら考えていきたいと思っています」

 今年の9月で事故から10年、裕貴さんは28歳を迎えます。

 多くの困難や悔しさに直面しながら、それでも、坂本さん一家はお互いに支え合い、この10年を過ごしてきました。

裕貴さんが介護を受ける部屋には、高校の友人たちから贈られた寄せ書き写真が飾られていた(筆者撮影)
裕貴さんが介護を受ける部屋には、高校の友人たちから贈られた寄せ書き写真が飾られていた(筆者撮影)

 壁に飾られた元気だった裕貴さんのたくさんの写真に目をやりながら、智恵美さんはこう語ります。

「もし、元気だったら、結婚して子どももいたかもしれませんね。青年団で小さな子供の担当になったとき、裕貴は嬉しそうに『俺、子供できたら、だんじり引かすわー、むっちゃ可愛いでー』と言っていたのに、それももうできません。でも、裕貴は頑張って生きてくれています。生きているから温かい体に触れられる、抱きしめることができる。少しでも笑顔が見られたら嬉しくなります。だからいつも、頑張ってお父ちゃんやお母ちゃんのもとに帰ってきてくれてありがとうって言ってるんです」

裕貴さんにやさしく語り掛ける父・清市さん(筆者撮影)
裕貴さんにやさしく語り掛ける父・清市さん(筆者撮影)