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パット・トラヴァース/ハードに弾きまくれ!炎のギター人生【後編】

山崎智之音楽ライター
Pat Travers / courtesy Cleopatra Records

ニュー・アルバム『The Art Of Time Travel』を発表したカナダ出身のギター・ヒーロー、パット・トラヴァースへのインタビュー全2回の後編。

前編記事では新作について主に語ってもらったが、今回は孤高のギター・ロードを突き進んできた彼の生きざまと知られざるエピソードの数々の数々に迫ってみたい。

Pat Travers『The Art Of Time Travel』ジャケット(Cleopatra Records 現在発売中)
Pat Travers『The Art Of Time Travel』ジャケット(Cleopatra Records 現在発売中)

●『The Art Of Time Travel』であなたの音楽に初めて触れる音楽ファンのために、幾つかあなたの軌跡に関する質問をさせて下さい。『ライヴ! Go For What You Know』(1979)は究極のロック・ライヴ・アルバムのひとつと呼ばれますが...。

ああ、『フランプトン・カムズ・アライヴ!』に匹敵するライヴ・アルバムの名盤だよな(笑)!

●...『ライヴ! Go For What You Know』の方が最高だと思います!

ハハハ、俺もそう思うよ。ピーター・フランプトンと同じぐらい売れて欲しかった、という意味だ。1976年にデビューして、約2年半で4枚のアルバムを発表してきた。次のスタジオ・アルバムの曲を書くまで少し時間を取ろうと考えて、“繋ぎ”としてライヴ・アルバムを出すことにしたんだ。ツアーから4、5公演をレコーディングして、良いテイクを選んでミックスして、そのテープをレコード会社に渡した。1曲のヴォーカル・ハーモニーでオーヴァーダブをした程度で、演奏はまったく直していなかった。さあ、これで1枚完成したから、次のアルバム用の曲を書き始めなきゃ!...と考えていたよ。でもそうしたら「ブーム・ブーム」が全米FMラジオで突然ヒットしたんだ。それでライヴ・アルバムをプロモートするツアー日程が追加されて、曲作りにもう少し時間をかけることが出来た。それが『クラッシュ・アンド・バーン』(1980)の多様なソングライティングに繋がったんだよ。

●『クラッシュ・アンド・バーン』はあなたの最大のヒット・アルバムのひとつです。「スノーティン・ウィスキー」がヒット・シングルになって、「クラッシュ・アンド・バーン」は現在でもライヴでのファン・フェイヴァリットのひとつですが、「悪い星の下」や「イズ・ディス・ラヴ」などのカヴァー曲、シンセをフィーチュアした「ビッグ・イベント」、プログレッシヴな展開の「マテリアル・アイズ」など、多彩な作品でもありました。当時どんなアルバムを作ろうと思ったのですか?

君に言われるまで、そんなにゴッタ煮なアルバムだとは意識していなかったけど、いろんなプロダクションやサウンドが同居していることは確かだな。それが当時の俺だったんだ。さまざまな音楽を吸収して、自分の血と肉にしていたんだよ。ある意味『The Art Of Time Travel』には同じ精神が宿っていると思う。根底にロックとブルースがあって、前作からのスウィングの影響、幽玄なリード・ギターなど多彩な要素があっても、1枚のアルバムとしての流れがあるんだ。もし『The Art Of Time Travel』を1979年に発表していたら、大ヒットしていたんじゃないかな(笑)。

●1970年代末〜1980年代初のあなたとパット・スロール(ギター)、トミー・アルドリッジ(ドラムス)、マーズ・カウリング(ベース)というパット・トラヴァース・バンドの編成は、今日でも“クラシック・ラインアップ”と呼ばれます。

あの時期のバンドは炎に包まれていたね。強力なラインアップだった。でも音楽以外の、我々にはどうにもならないさまざまな問題が重なって、長くは続かなかったんだ。俺もまだ26歳の若さで、いろんなことが判っていなかった。まあ、ロック・バンドにはよくあることだよ。

●バンドの名前がパット・トラヴァース・バンドで、あなたというギター・ヒーローがいるのに、何故もう1人のギタリストとしてパット・スロールを迎えたのですか?

曲を書いていて、ギターが1本では物足りなく感じることがあったんだ。それにステージで俺がギター・ソロを弾くと、バンド全体のサウンドの厚みが足りなくなった。俺はステージでキーボードも弾きたかったし、もう1人ギタリストを加えることにしたんだ。

●トミー・アルドリッジと話したとき、パット・スロールをあなたに紹介したのがマイケル・シュリーヴだったと話していました。

いや、それはトミーの記憶違いだと思う。パット・スロールを紹介してくれたのはジャーニーのニール・ショーンだったんだ。パットは凄かった。完璧だったよ。彼はオートマチック・マンというバンドでリード・ギタリストだったけど、俺とはプレイのスタイルがまったく異なっていた。彼はテクニカル・プレイヤーで、俺はよりロックンロール・プレイヤーだったと思う。だから彼がライヴでリードを弾くこともあったし、何よりも友人としてうまくやっていた。パットは今でも俺のオールタイム・トップ5ギタリストに入る。

●...ちなみに他の4人は?

ジェフ・ベック、B.B.キング、ジミ・ヘンドリックス、ジョニー・ウィンターかな?みんな最高だよ。

●トミーによると、彼とパット・スロールがバンドを去ったのはドラッグが関係していたそうですが、あなたもドラッグの問題を抱えていたのですか?

あの時代は誰もがドラッグをやっていたよ。パーティーをやって、ハイになっていた。ただ、それで音楽が犠牲になることは一度もなかった。他にも人間関係やビジネスのゴタゴタがあったんだ。彼らは良い人間だったけど、いずれ離れていくことは避けられなかった。

●パット・スロールは「ブーム・ブーム」のライヴ・ヴァージョンなどで火を噴くリード・ギターを弾いていますが、そのキャリアを通じて“弾けるのに弾かない”ことが多く、ファンとしては正直フラストレーションが募るギタリストでもあります。一部のロック・ファンには“パット・スロール待望論”があって、いつか彼がリード・ギターを弾きまくるバンドを結成することを期待していたのですが...。

パットにはギター・ヒーローのエゴというものがないんだ。プロフェッショナルなミュージシャンとして音楽に仕えたんだよ。そういう意味で彼はやはり一流なんだ。現在の彼はハッピーのようだし、すべてが丸く収まった形だよ。こないだ彼が住んでいるラスヴェガスが豪雨に見舞われて、無事か心配だし、久しぶりに連絡を取ってみるつもりだ。砂漠の真ん中にあるラスヴェガスが洪水になるなんて、想像も出来なかったよ。

●日本のファンからもよろしくと伝えて下さい!

パットは俺のバンドを去ってグレン・ヒューズと組んだけど(ヒューズ・スロール)、当時は2人とも真っ直ぐ歩けないぐらいハイになっていたし、長続きしなかった。彼らのアルバム『仮面の都市 Hughes Thrall』(1982)には良い曲が入っていると思ったよ。ミックスがダメだったけどね。その後、彼はミート・ローフのバンドでやっていたんだ。決してテクニカルなギターが求められるスタイルの音楽ではなかったし、超絶速弾きはしなかった。もちろんミート・ローフの音楽も難易度が高く、パットだからこそ弾きこなせるものだったし、プロとして求められるものを完璧な形で提供していた。でも彼がスポットライトを浴びる場がなかったのは残念でもあったね。それから彼はニューヨークの“パワー・プラント”スタジオでアシスタント・エンジニアを務めて、プロ・トゥールズを操作したりするようになった。今ではラスヴェガスでエンジニアとして成功を収めているし、ギターを弾いているかも判らない。彼が本気を出したときのプレイは想像を絶するものだったけど、それは正式にレコーディングされることがなかったんだ。

●ジョー・サトリアーニの『エンジンズ・オブ・クリエーション』(2000)にパット・スロールが参加していて、ジョーとの壮絶なギター・バトルを聴ける!と超期待していたら、ベースを弾いていてズッコケました。

君の気持ちも判るけど、パットのベース・プレイはきっとアルバムをより素晴らしいものにしていたと思うよ。彼はそういうミュージシャンなんだ。自分が目立つより、音楽全体のことを最優先に考えるタイプなんだよ。

●トミーとパット・スロールが脱退した後に発表された『ニュー・エイジ・ミュージック Radio Active』(1981)で2人のプレイがフィーチュアされているのはどの曲か覚えていますか?

「アイ・キャン・ラヴ・ユー」の1曲だけだよ。『クラッシュ・アンド・バーン』のセッションでレコーディングして、使わなかった曲なんだ。パットがギターを弾いて、俺はキーボードを弾いている。2分半の短いポップ・チューンだけど、良い曲だよ。

●さっきヒューズ・スロールの話題が出ましたが、パット・スロールが参加する以前の『メイキン・マジック』(1977)にグレン・ヒューズがゲスト参加して、グレンの『燃焼 Play Me Out』(1977)にあなたが参加していますが、彼とはどのように知り合ったのですか?

俺はカナダで生まれ育って1970年代半ば、レコード・デビューする前に活動拠点をイギリスのロンドンに移したんだけど、『パット・トラヴァース・ファースト』(1976)発表後にバーミンガムでライヴをやったとき当時のマネージャーがグレンを紹介してくれて、すぐに親しくなったんだ。その頃ちょうど『メイキン・マジック』を作っていて、「スティーヴィー」という曲の最後で歌ってもらった。彼とディープ・パープルで一緒だったトミー・ボーリンが亡くなった2日後で、グレンは次の日に彼の葬式に向かうことになっていた。そんな時期だからスタジオに来る心境ではなかったかも知れなかったけど、ハートの限りを込めたヴォーカルを入れてくれたよ。この曲のアウトテイクで、彼は涙を流しながら歌っていたんだ。それからもずっと友達だったけど俺はフロリダに引っ越して、彼はロサンゼルスでドラッグの問題を抱えて、しばらく疎遠になっていた。でも1990年代の初め、俺がLAでショーをやったとき、楽屋を訪れてくれたんだ。すっかり健康になっていて、本当に嬉しかったね。グレンは史上最高のシンガーの1人だよ。

●グレン・ヒューズとトミー・アルドリッジは後にゲイリー・ムーアと活動していますね。あなたとゲイリーは1970年代から1980年代にハードなロックをプレイして、1990年代にブルース路線に転じたという共通点がありますが、接点はありましたか?

ゲイリーと初めて会ったのは1976年か1977年、ロンドンのパブでのジャム・ナイトだったんだ。平日の夜だったから、あまり人がいなかった。ブルース・ジャムをやって、吹っ飛ばされたよ。彼はあまりしゃべるタイプではなかったし、それから1、2回しか話す機会がなかった。どちらかと言えば彼とシン・リジィで一緒だったフィル・ライノットと親しくなった。

●フィル・ライノットとはどのようにして知り合ったのですか?

ロンドンに引っ越したとき、マネージャーを探していたんだ。そんなときシン・リジィの“ラウンドハウス”でのショーを見て、こんな凄いバンドと一緒のマネージメントでやりたい!と考えて、彼らのマネージャーだったクリス・オドンネルとクリス・モリスンと会ったんだよ。結局、別のマネージャーを雇ったんだけど、フィルやギタリストのスコット・ゴーハム、ブライアン・ロバートソンとは飲みに行ったりする仲になった。ブライアンが手をケガして北米ツアーに同行出来なくなったとき、助っ人参加を頼まれたこともあったよ。

●1977年1月から3月、クイーンとのツアーですね。

何回かリハーサルはしたけど、残念ながら俺も自分のツアーがあったし、手伝うことが出来なかった。でも、それからもずっと友達だったよ。みんな長髪で厚底のブーツを履いて、ロックンロールが大好きだった。懐かしいね。でもその後、パンクが登場してね。『パット・トラヴァース・ファースト』を出して間もなく、俺みたいなミュージシャンはオールドスクールになってしまったんだ。音楽雑誌でも扱ってくれなくなったよ。そんな状況下で、イギリスで出たアルバムがアメリカのテキサスやベイ・エリア、シカゴ、ボストン、フロリダなどで話題になった。それでアメリカに活動拠点を戻すことになったんだ。

●あなたが辞退したシン・リジィの1977年北米ツアーにはゲイリー・ムーアが同行したのだから、いろいろ繋がって興味深いです。

ゲイリーのアルバム(『ラン・フォー・カヴァー』/1985)で彼はグレンみたく歌おうとしていたよね。ただ、グレン・ヒューズは世界に1人しかいないし、誰も彼にはなれない。“グレンのそっくりさん”にしかならないんだよ。ゲイリーは凄いギタリストだし、そんなことをする必要はなかったのにね。

●リトル・ウォルターの「ブーム・ブーム」はあなたの代表曲となりましたが、何故カヴァーしようと思ったのですか?

13歳のとき、オタワで毎年行われているサマー・フェアでいろんなコンサートが行われていたんだ。そこでキング・ビスケット・ボーイというブルース・シンガーでハーモニカ奏者が出演していた。彼はハミルトン出身で、本名をリチャード・ニューエルというんだけど、バンドを率いて「ブーム・ブーム」を歌っていた。そのとき一度聴いただけだったけど7年ぐらい経って、ロンドンで『パット・トラヴァース・ファースト』をレコーディングしていたとき、追加でもう1曲が必要になったんだ。それでこの曲を思い出して、自分のヴァージョンを録ることにした。アルバムではピアノを入れたりしたけど、ライヴでプレイするうちにハードになって、お客さんとの掛け合いも加えていった。自然に進化していったんだよ。毎晩お客さんがクレイジーになって盛り上がる曲だったけど、全米のラジオでヒットしたのは驚いたね。

【アーティスト公式サイト】

http://www.pattravers.com/

【レーベル公式サイト】

Cleopatra Records

http://cleorecs.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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