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【インタビュー後編】ジョー・ルイス・ウォーカー、日本への愛と盟友マイク・ブルームフィールドを語る

山崎智之音楽ライター
Joe Louis Walker / Cleopatra Records

ニュー・アルバム『Blues Comin' On』を発表した現代アメリカの誇るブルースマン、ジョー・ルイス・ウォーカーへのインタビュー、全2回の後編。

前編記事に引き続き、知的で雄弁な語り口で話すジョーの音楽性をさらに掘り下げ、そのキャリアにおける日本愛、そして盟友マイク・ブルームフィールドについても語ってもらおう。

まずは新型コロナウィルスの流行下での、ジョーの日常を訊いてみる。

<日本のことを考えるたびに、ワダ氏を思い出す>

●コロナ下でどのような生活をしていますか?

出来るだけ外出を控えて、買い物などをするときはマスクをして... ニューヨーク州の、ウッドストックの近くに住んでいるんだ。静かな所だけど、いろいろ気を配りながら生活しているよ。これからライヴを少しずつやろうと考えているけど、ソーシャル・ディスタンシングを配慮して、無理のない形でやっていくつもりだ。こないだ久々にスタジオに入って作業もした。空調を効かせたり、卵の殻の上を歩くように、注意しながら少しずつ前進している状態だね。でも私はミュージシャンだし、ライヴやレコーディングが生業だ。もう決して若くないし、出来ることはやっておきたいんだよ。前から曲を書いていたから、すぐにでも次のアルバムに取りかかりたいんだ。日本にも行きたいしね!

●最近日本に来たのは2010年、ジャパン・ブルース・カーニバルですが、どんなことを覚えていますか?

最新アルバム『Blues Comin' On』ジャケット/ courtesy Cleopatra Records
最新アルバム『Blues Comin' On』ジャケット/ courtesy Cleopatra Records

ソロモン・バークと一緒にショーをやったときだ。彼が亡くなる少し前のことだよ。良いショーだったし、ソロモンと話すことが出来て嬉しかった。私が初めて日本を訪れたのも、ジャパン・ブルース・カーニバルだった。大昔のことだ。いつだったか思い出せないぐらいだよ。

●1986年の第1回でした。

1986年?そんな前の話なのか(笑)。あらゆることを鮮明に覚えているよ!ジョニー・アダムスとアール・キングと一緒に出演だったんだ。「日本にブルースを聴くリスナーがいるのか!」と驚いた記憶がある。でも実際にプレイすると、ブルースに対する深い知識と愛情があることを体で感じた。素晴らしい経験だったよ。その後、フィッシュボーンと一緒にショーをやったんだ。それまで私は彼らの音楽を聴いたことがなかったけど、とても面白い組み合わせだと感じたね。『Cold Is The Night』(1986)を発表した直後だった。ブルースをプレイするのは10年ぶりで、初めてのワールド・ツアーという体験だったんだ。私はサンフランシスコのフィルモア地区育ちだけど、すぐ近くに日本人街があった。アフリカ系の我々にとっても、ヨリ・ワダ氏は尊敬の対象だった。だから日本のことを考えるたびに、ワダ氏を思い出すよ。

(ヨリタダ“ヨリ”ワダ<1916- 2012>は日系2世。カリフォルニア大学の評議会員、YMCAサンフランシスコ・ブキャナン支部の事務局長など、カリフォルニア州での教育活動に努めた)

●あなたは1960年代からミュージシャンとして活動してきましたが、初めてのリーダー・アルバム『Cold Is The Night』が1986年と遅れたのは、何故だったのでしょうか?

1960年代からデモを録ったりしてきたけど、レコード契約を取れなかったんだよ。他のアーティストのレコードにも参加して。1975年に“ミュージシャンとして儲けよう”という流れからドロップアウトしたんだ。

●それは何故ですか?

“成功”というものに疑いを抱くようになったのは、マイク・ブルームフィールドを見ていたことも理由のひとつだった。崇高な理想を持って音楽を始めたミュージシャンであっても、ビジネスに関わることで、自分の望まない方向にねじ曲げられそうになって落胆したりする。自分のやりたいことをするのと、コマーシャル面で成功するのは、まったく別のものなんだ。私は自分の混じり気のない音楽を世に出したかった。そして常にポジティヴな音楽をやりたかった。私が自分のアルバムを出すのに時間がかかったのは、それが原因のひとつだったのかもね。デモをレコーディングする金を捻出するのも時間がかかったんだ。しかも、せっかくデモを作ってもレコード会社に門前払いを食らった(苦笑)!でも私は諦めなかった。何本もデモを作って、いろんなレコード会社に送りつけたんだ。それで“ハイトーン・レコーズ”が契約してくれた。1984年から85年にかけて『Cold Is The Night』をレコーディングして、1986年に発表したんだ。それ以降、レーベル契約を結ぶのに苦労した経験はない。最初は大変だったけど、とても幸運なキャリアを経てきたよ。

●私(山崎)が初めて聴いたあなたのアルバムは『Blues Survivor』(1993)だったと記憶しています。1990年代前半にはバディ・ガイやジョン・リー・フッカーらの新作がヒットするなどブルースの再評価が起こっていますが、その真っ只中にいたのはどんな経験でしたか?

1990年代にブルースが盛り上がったのは事実だけど、それは1980年代の流れの上にあったと思う。スティーヴィ・レイ・ヴォーンがメインストリーム市場で成功を収めたことが大きかったよ。彼がブルースを一般リスナーに広めたおかげで、ロバート・クレイや私は“I lost my baby... I gotta find my baby...”ギター・ソロが入って最後に“I found my baby”なんてスリー・コードのアリガチな代物でなく、より技巧を凝らしたブルースをやってもリスナーに理解してもらえるようになったんだ。当時“アリゲイター・レコーズ”は私のデモを聴いて、門前払いしてきた。私だけじゃない。ロバート・クレイもオーティス・グランドも、“スリー・コードのブルースでない”という理由でスルーされたんだ。

●ずっと後になって、その“アリゲイター”からアルバムを出していましたよね?

そう、『Hellfire』(2012)と『Hornet's Nest』(2014)を出したんだから、人生は不思議なものだよ。社長のブルース・イグロアをからかってやった。「当時は契約しなくて良かったな。今の方がずっと良いアルバムを作っているよ」ってね。マイルス・デイヴィスだったかな、「自分の成功作よりも失敗作から学ぶことが多い」と言っていたけど、それは事実だよ。ああすれば良かった、という後悔が、次のアルバムをより良いものにするんだ。

●1990年代、レコード会社はブルースを売り出すことにより熱心だったのでしょうか?

うん、それは事実だ。1992年、私は“ハイトーン”から“ポリグラム”に移籍した。ロバートも“ハイトーン”から“マーキュリー”に移籍して、「スモーキング・ガン」をヒットさせていた。バディ・ガイは“シルヴァートーン”と契約した。レコード会社は広告費やフェスティバルへの協賛など、ブルースに金を出すようになった。ジム・ビームやバドワイザーなど、アルコール飲料の企業も、ブルースに金を出していたんだ。それでブルース・ミュージシャン達は生計を立てることが出来るようになった。だから君の言うように、ちょっとしたブルース・ブームだったのかもね。ブルースだけでなく、当時アメリカの景気全体が良くて、私自身も世界中をノンストップでツアーして、家を2軒買えたほどだった。音楽業界のすべてが一変したのは、ナップスターのせいだった。奴らは音楽を盗んで、オンラインで流してしまった。ブルースだけでなく、誰も音楽に金を出さなくなったんだ。当初、レコード会社はナップスターを甘く見ていた。弁護士を雇って叩き潰す、とまで言っていたんだ。でも彼らは音楽ビジネスが大きく変動するのを止めることが出来なかった。今の若い音楽リスナーは、CDなんて見たこともない。アナログ・レコードが復活しているといっても、何百万枚も売れるわけじゃないよね。それでミュージシャンが生活するには、ライヴで稼ぐしかなくなったんだ。そんな矢先に新型コロナウィルスだろ?2020年という時代は、ミュージシャンにとってとんでもない危機だよ。ブロードウェイのミュージカルも再開するのは、早くても2021年といわれている。たとえワクチンが開発されても、経済が沈滞して、みんなの気分も落ち込んでいる。本当にクレイジーな世界になってしまったよ。

●そんな状況下で、ブルース・ミュージックはどうなっていくでしょうか?

とにかく状況が良くなるように祈るしかないね。ただ正直、楽観視は出来ない。アートは生活必需品とは見做されないし、経済的に余裕がないと、真っ先に削られてしまう。それでも私は絶対に音楽を止めないし、聴きたいと言ってくれる人さえいれば、いつでも演奏しに行くよ。もちろんソーシャル・ディスタンシングは大事だし、感染を避けるように気を付ける必要があるけどね。

Joe Louis Walker / (c)Mickey Deneher
Joe Louis Walker / (c)Mickey Deneher

<マイク・ブルームフィールドは不眠症だった>

●あなたは1960年代の公民権運動と2020年の“ブラック・ライヴズ・マター”運動の両方を見てきましたが、どんなところが共通していて、どんなところが異なっているでしょうか?

一番の相違点は、2020年にはSNSがあることかな。誰もが同時に、同じものを見ることが出来る。警察の暴力行為も伝聞でなく、自分の目で見て、何が正しいか、何が正しくないかを判断することが出来るんだ。それと同時に、抗議運動がショッピングモールの襲撃など良くない方向に向かうのも見てきた。ロマンチックなイデオロギーだけでなく、多角的な視点からひとつの事象を見ることが出来るようになったんだ。

●あなたの友人マイク・ブルームフィールドは積極的に人種間の壁を壊してきた白人ブルース・ギタリストでしたね。

うん、マイクはいろいろな壁を壊してきたよ。彼は旧世代のブルースと新世代の橋渡しとなる存在でもあった。マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフ、ロバート・ナイトホーク、キャリー・ベルなどはみんなマイクを気に入っていた。シカゴからサンフランシスコにブルース・ミュージシャンが来ると、彼と俺が同居している家に泊まりに来ていたよ。マイクは最高のギタリストだったし、音楽的なインスピレーションに満ちていた。ただ彼は音楽ビジネスには向いていなかったんだ。むしろ音楽ビジネスを忌み嫌っていたよ。レコード会社が才能もないバンドを過剰評価して売り出すことを憎んでいた。だから彼は有名になることを拒絶したんだ。ただ、マイクの体内には音楽が詰め込まれていた。

●マイクの音楽の特徴を挙げるとしたら、どんなものでしょうか?

マイクは本当に多才だった。彼はラグタイム・ピアノも弾けたし、カントリー・ギター、ラップ・スティール・ギター、バンジョーも弾くことが出来た。あまりに才能に溢れていて、彼が音楽をやると、注目を浴びずにいられなかったんだ。あんなに凄いミュージシャンで私が知っているのはたった1人、タジ・マハールぐらいだった。ただ、マイクは歌えなかった。彼が唯一出来なかったことだよ。

●マイクはあなたより6歳年上でしたが、どんな人でしたか?

一緒に住んでいて、彼は兄貴みたいだったよ。誰に対しても正直な人だった。自分自身に対してもね。マイクから学んだのは、1日1冊、必ず本を読み始めることだった。最後まで読むかは別の話だけど、とにかく毎日本を読み始めるようにしたんだ。マイクは読書家だったよ。というのも、彼は不眠症だったんだ。マイクがあまりツアーに出たがらなかったのは、それも理由だった。ホテルや、ましてやツアー・バスでは眠れないから、体力が続かないんだ。眠れないから、本を読むぐらいしかすることがなかった。

●あなたにとってマイクのベスト・プレイは何でしょうか?

マイクのギターが本領を発揮するのは、ライヴだった。レコードでは彼の真の実力を捉えることは出来なかったんだ。彼のスタジオ・ワークで一番凄いのは、『ザ・ポール・バターフィールド・ブルース・バンド』 (1965)の「メロウ・ダウン・イージー」だろうな。火を噴くようなギターだよ。『イースト・ウェスト』(1966)の「アイ・ガット・ア・マインド・トゥ・ギヴ・アップ・リヴィング」も素晴らしい。アル・クーパーとの『スーパー・セッション』(1968)も良いけど、マイク自身は気に入っていなかった。それで彼はスタジオ・セッションの2日目に姿を現さず、アルは急遽スティーヴン・スティルスを呼ぶことになったんだ。

●マイクにはエキセントリックなところもあったのでしょうか?

マイクはとても寛大な人だったし、エキセントリックという感じではなかったよ。ただ、彼は有名になることを嫌っていた。誰よりも音楽が好きだけど、音楽ビジネスは好きではなかったんだ。ただ、誰もが彼に注目していたよ。それに彼はあらゆるアーティストのレコードに参加していた。ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」、ウディ・ハーマン・オーケストラとのセッションとかね。エディ“クリーンヘッド”ヴィンソン、それとミッチェル・ブラザーズのポルノ映画のサウンドトラックまで手がけたんだ。何でもやっていたよ。

●ピーター・グリーンの『ホット・フット・パウダー』(2000)に参加しましたが、1990年代のブルース再評価で成功を収めた1人がピーターと交流のあるゲイリー・ムーアでした。ゲイリーの音楽は聴いたことがありますか?

うん、聴いたことがあるよ。ちょっと弾き過ぎだと思った(笑)。ピーターは必要のない音を弾くことがなかった。ゲイリーは凄いギターを弾いていたね。まるで別の惑星から落ちてきたようだった。でも同じアイルランド出身のギタリストだったら、ロリー・ギャラガーの方が好きだったかな。ロリーはギターはもちろん、マンドリンやバンジョーを弾いて、多彩な才能を持っていた。ロリーの弟でマネージャーのドナル・ギャラガーと話したことがあるんだ。一緒にショーをやろうという話があって、当時私が住んでいたイースト・クロイドンまで来てくれたんだよ。ロリーとは直接の面識がなかったけど、ぜひ一緒にライヴをやりたかったね。

●イギリスに住んでいたとき、他に交流のあったミュージシャンはいますか?

ロリーが亡くなったのと同時期にジョー・アン・ケリーも亡くなったんだ。 彼女とは友達で、とても悲しかったよ。彼女は素晴らしい声をしていて、ボニー・レイットのイギリス版だと思っていた。スティーヴ・マリオットも好きだった。当時、白人と黒人が一緒にバンドをやるのは珍しかったんだ。でもハンブル・パイの「ブラック・コーヒー」では黒人女性コーラスを加えて、最高だったね。彼も同じ時期に亡くなってしまった。『Blues Comin' On』では彼らにもゲスト参加して欲しかったよ。

【最新アルバム】

Joe Louis Walker『Blues Comin' On』

米Cleopatra Records 現在発売中

日本盤も近日発売予定

http://cleorecs.com/home/playlist/joe-louis-walker-blues-comin-on/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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