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【インタビュー後編】イーグルス・オブ・デス・メタルのジェシー・ヒューズが語る原点と未来

山崎智之音楽ライター
photo by RMV/REX/Shutterstock(写真:Shutterstock/アフロ)

イーグルス・オブ・デス・メタルのシンガー、ジェシー・ヒューズへのインタビュー後編。

2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件は、130人の死者と360人の負傷者を出したのに加えて、多くの人々の心に癒えることのない傷跡を残した。バタクラン劇場での発砲事件が起こったとき、ステージ上にいたジェシーもその一人だった。

89人の死者と200人以上の負傷者を出したこの事件で、幸い大きな怪我を負うことがなかった彼だが、その心へのダメージは大きなものだった。また、徹底してロックのエンタテインメントにこだわってきた彼にとって(12枚のステージ用マントを持っているほどだった)、事件はあらゆる夢とファンタジーを剥ぎ取ってしまうことになった。

だが、ロックンロールは負けない。2016年2月16日、パリに戻ってきた彼らの映像作品/アルバム『ライヴ・アット・ザ・オランピア・パリ 2016〜アイ・ラヴ・ユー・オール・ザ・タイム』は、ロックンロールがとびっきり楽しく、激しく、ネガティヴな要素が入りこむ余地などないことを証明する極上のパーティーだ。

前編記事に続く今回、ジェシーはたくさんのユーモアと少しばかりのシリアスを交えながら、バンドの原点と現在、そして未来について語ってくれた。

音楽にはエロであって欲しい

●イーグルス・オブ・デス・メタルは2007年3月に日本公演を行っていますが、どんなことを覚えていますか?

『Live At The Olympia In Paris』現在発売中
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毎日ロックンロールをやっていると人生そのものがボンヤリしていく。昼なのか夜なのかも、自分がどこにいるかも判らない。でも日本で起こったことは、もう10年経ってもすべて記憶しているよ。1分ごとに起こったことを覚えている。それまで日本についてはいろんな人からいろんな噂を聞いてきたけど、すべてが本当だった。それでいて、俺は日本について何も知らなかった。まるで火星にいるようで、同時に心の故郷に帰ったようだったよ。俺の祖父は1950〜60年代、電気関係の仕事で日本人とよく仕事をしていたんだ。だから子供の頃から日本の文化に親しみを感じていた。きっとスゴイ国に違いないと思ってきた。まったくその通りだったよ!ただホテルのジムに行こうとしたら「刺青入りの人はダメです」と言われて、「いいじゃないかそれぐらい」とゴネたら警察を呼ばれそうになった(苦笑)。あと日本の友人に馬肉の刺身を食べさせられたよ。俺はカウボーイだから馬の肉は食べないと主張したけど、せっかく勧められたんで、少しだけ食べてみた。魚の刺身とはずいぶん違うと思ったな...。

●イーグルス・オブ・デス・メタルの東京公演とちょうど同日、コンヴァージも東京でライヴを行ったんですよね。

それは知らなかった!コンヴァージは友達だし、彼らの音楽は最高だよ。俺はロック界にたくさん友達がいるんだ。ロックの世界に入ってくるのが比較的遅かったし、ジャンルやコミュニティの垣根にこだわらず良いバンドだったら自分から積極的に近寄っていったからね。子供の頃は友達もあまりいなかったこともあって、プロ・ミュージシャンの連帯感はすごく自分の居場所として安住できる場所なんだよ。もしロックンロールの国連があったら、俺が国連大使になるつもりだ。ただそのためには、俺自身が良い人間でなければならない。だからビッグなハートとビッグなポコチンを持つように心がけているんだ。

●2017年にもコンヴァージのカート・バルーがプロデュースしたロシアン・サークルズ、そしてマストドンとツアーを行ったそうですが、彼らとも親しくなりましたか?

もちろん!努力して友達になろうとしなくても、彼らはクールな連中だった。マストドンみたいな超ヘヴィなバンドと一緒に“イーグルス・オブ・デス・メタル”なんて名前のバンドが出演すると、どれだけ凄いデス・メタル・バンドなんだろう?とか誤解されてしまうんだ。初期はよく訊かれたよ。「あんた達はちっともデス・メタルじゃないじゃないか」ってね。いつもこう答えていたよ。「いや、俺たちは“デス・メタル界のイーグルス”だから」ってね。大抵みんな、よく判らない顔をして、それ以上質問をしてこなかった。こっちからプロモーターに訊いたりもしたよ。「俺たちがリトル・リチャードみたいな音楽をやってるって知ってるだろ?」俺たちみたいなバンドがメタル・フェスに出演するというのは、ロックという音楽の幅広さと可能性を証明することなんだ。俺たちが出演することで、音楽は単なる手品ではなく、大魔術になるんだよ。ロシアン・サークルズのグルーヴも最高だよ。俺はグルーヴが大好きなんだ。音楽にはエロであって欲しい。メタリカの『キル・エム・オール』は誰が何と言ってもエロかった。キング・ダイアモンドは最近はあまりエロくないかも知れない。

●キング・ダイアモンドは先日子供が生まれたばかりだし、エロい行為はしているみたいですよ。

そうかぁ(笑)。まあ、ミック・ジャガーみたいに70歳を過ぎてもあちこちで子供を作っている最高のエロ野郎もいるし、上には上がいるものだよね。

●『ライヴ・アット・ザ・オランピア』のオランピア劇場でのライヴのオープニングにフランスの歌手ジャック・デュトロンの1968年のヒット曲「午前5時、パリは目覚める」を流しましたが、それにはどんな意図があったのですか?

オランピア公演の前日、ジョシュと俺はパリ入りして、100人ぐらいの事件被害者の関係者たちが集まったパーティーに出席したんだ。彼らと話して、思い出を共有した。そのパーティーで流れていたのが「午前5時、パリは目覚める」だったんだ。あの曲を聴きながら、人生の歓びや悲しみについて語らいあった。その晩、俺は眠れなかった。怒りと悲しみでいっぱいだったんだ。だからこの日、この曲をオープニングに流すことで、俺たちが確かにここにいるということをアピールしたかったんだ。フランスの映画や音楽の文化はとても幅広く豊かなものだ。この曲を聴くたびに胸が切なくなるよ。

●一方、ライヴの最後にスコーピオンズ「イン・トランス」を流すのは?

「イン・トランス」はいつもクロージングに流していたんだ。過剰にドラマチックな曲が好きなんだよ。ショーを終えた俺たちが天空に戻っていくみたいな感じで、大仰な雰囲気にしたかった。ただもうスコーピオンズは流していなくて、今ではロイ・ブキャナンの「スウィート・ドリームス」をエンディングに使っているんだ。この曲は映画『ディパーテッド』で使われていて、俺は事件があったバタクラン劇場でのショーの当日、何度も繰り返し聴いていたんだ。その後、おふくろに言われた。俺は89人の天使たちに護られているんだってね。だから当日聴いていた「スウィート・ドリームス」をテープで流すことで、彼らに「おやすみ、みんなのことは忘れないよ」と挨拶するんだ。

photo by David Wolff-Patrick
photo by David Wolff-Patrick

“LOVE”の敵に中指を突きつけるんだ。ざまあみろってね

●あなたとジョシュ・ホーミがカリフォルニア砂漠(デザート)で同じハイスクールに通っていたことはよく知られていますが、カイアスの前身バンド、カッツェンジャマーをジョシュと結成するジョン・ガルシア、ブラント・ビョークも同じハイスクールだったのですか?

うん、その通りだよ。ジョンが俺より1学年上、俺はジョシュとブラントの1学年上だった。ジョンは生物学があまり得意ではなかったんで、11年のときに9年の生物学の授業を受けていた。そのときジョシュやブラントと親しくなったんだ。当初彼らはみんなロックに興味がなくて、スポーツ野郎だった。フットボールで奨学金をもらうようなタイプだったんだ。ジョン・ガルシアはチアリーダーにモテるタイプだったよ。ブラントはテニスをやっていて、学校にテニスの短パンで登校する、まさに体育会系だった。俺はジョンがロックンロールに魅せられた、まさにその瞬間に居合わせたんだ。誰かが彼にウォークマンでザ・カルトの『エレクトリック』を聴かせたんだよ。曲は「ワイルド・フラワー」だった。ジョンの表情が畏怖と衝撃で変わる瞬間を見たんだ。それから半年もしないうちに、ジョン、ジョシュ、ブラントはカッツェンジャマーを結成していたよ。

●1980年代後半のカリフォルニア砂漠ではヌーディスト・コロニー跡地に発電機を持参して行う“ジェネレーター・パーティー”が盛んに行われていたそうですが、あなたも参加していましたか?

うん、何度も行ったよ。いろんなバンドのライヴをホームビデオで撮影したし、出演したこともある。ソート・オブ・カルテットという、ファットソー・ジェットソンのメンバー達がやっているバンドでやったんだ。ギタリストのマリオ・ラーリは“ゴッドファーザー・オブ・デザート・ロック”で、彼がいなかったら俺もジョシュも音楽をやっていなかったかも知れない。ジョシュが生まれて初めてライヴをやったのは、マリオ宅のガレージだったんだ。カッツェンジャマーがバンド名をカイアスに変えて成功を収めてからも、俺は彼らとずっと親しかった。ブラントがカイアスを辞めた日、彼の頭を剃ってやったのも俺だったよ。

●現在イーグルス・オブ・デス・メタルのギタリストを務めるデイヴ・キャッチング(上写真の中央)はカリフォルニア・デザート・ロックの聖地といわれる『ランチョ・デ・ラ・ルナ』スタジオのオーナーでもありますが、彼とはいつから知り合いなのですか?

デイヴと初めて会ったのはもう20年以上前、1996年かな。クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのファースト・ライヴだった。ジョシュが紹介してくれて、すぐに仲良くなったよ。俺がサウスカロライナ州、デイヴも南部生まれだったことで、すぐに打ち解けることが出来たんだ。その日、打ち上げで「俺がバンドを結成したら入ってくれ」と頼んだのを覚えているよ。当時、俺はバンドをやっていなかったけど、それが実現してしまうんだから、人生は面白いね。

●イーグルス・オブ・デス・メタルとしてのスタジオ新作は予定していますか?

実は今、映画『だめんず・コップ』続編のスコアの作業を始めたんだ。イーグルス・オブ・デス・メタルと俺のソロ・プロジェクトのブーツ・エレクトリック両方の名義でレコーディングする。それから年内にはイーグルス・オブ・デス・メタルとしてのニュー。アルバムを作りたいね。そうしたらワールド・ツアーをやることになる。誰にも俺たちを止めることは出来ないよ。悪いヤツら、“LOVE”の敵に中指を突きつけるんだ。ざまあみろってね。ダース・ヴェイダーがオビ・ワン・ケノービを斬り倒しても、より強くなって蘇るのと同じだ。アルバムを作ったり映画音楽を書くことが出来るのは、幸せだと思う。ロックンロールで生きることをエンジョイしているよ。

●バタクラン劇場で事件が起こったとき、あなた達はちょうど「キス・ザ・デヴィル」を演奏していましたが、いつか再びステージでプレイする日が来るでしょうか?

通常イーグルス・オブ・デス・メタルでは俺が何でも決めるし、他のメンバーが何を言おうが知ったことじゃないけど、このことについてはバンド内で話し合ったよ。俺自身は、事件の後に初めてライヴをやるとき、1曲目にプレイしようと主張したんだ。(2015年)12月にU2と一緒にやったとき、プレイするべきだと思った。ただデイヴ・キャッチングとマット・マクジャンキンス(ベース)の反対もあったし、彼らの気持ちを考えて、結局やらないことにしたんだ。今から思えば、それはミステイクだった。直後にやらなかったから、タイミングを逸して、またプレイするには特別な理由が必要になってしまったんだ。

これから時間が経てば経つほど、プレイするのが難しくなってしまうと思う。

●確かにそうですね。

「キス・ザ・デヴィル」についてはいろいろ考えることがあるんだ。もしかしたら、この曲はもう演奏するべきでないのかも知れない。悪いヤツらに奪われたわけじゃない。89人の天使たちに捧げられて、これからは彼らだけが聴くことが出来る曲なのかも知れないってね。でも、正当な理由があれば、またプレイしても良いと思うんだ。...今思いついたんだけど、今度日本に行くことが出来たら、「キス・ザ・デヴィル」をライヴで復活させようと思うんだ。とても良いきっかけになると思う。約束するよ。うん、次回日本でプレイするときは、「キス・ザ・デヴィル」を必ず演奏するからね。

イーグルス・オブ・デス・メタル
『ライヴ・アット・ザ・オランピア・パリ 2016 〜 アイ・ラヴ・ユー・オール・ザ・タイム』
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音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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