京都の知られざる旧二条通
きっかけは出世稲荷神社の移転から
平成24年7月に京都市の中心「千本旧二条」にあった出世稲荷神社(豊臣秀吉創建)は大原へ移転した。神社があった「千本旧二条」とは、千本通と旧二条通が交わる交差点を指す。千本通とは、かつての朱雀大路で都の南北のメインストリートであり、旧二条通とは、かつての二条通という意味合いと推測される。出世稲荷神社の前にはバス停があり、「出世稲荷神社前」というバス停名となっていたが、これも神社の移転によって名前の変更の必要が生じ、関係者で検討した結果、写真のように「千本旧二条」という名前のバス停となったわけである。こうしてはっきりと名前が表に出てきた以上は、「旧二条通」の実態が気になってくる。この名前は千本通より西側の道に見られ、東側には存在していない。つまり東側は新も旧もなく、平安京以来の二条通が昔から現在も使用されているということである。このように東西で違いが生じたのは、東側は京都全体的にも道路や街の保存状態が良好で、区画が今もきっちり残っているという点と、徳川家康が造営した広大な二条城の存在が挙げられる。この城によって二条通は完全に分断され、保存状態の良くなかった二条城から西側は、区画があやふやになってしまったのであろうと考えられる。
結論からいうと、二条通は二条城から西側には存在せず、旧二条通とは、「太子道」と呼ばれる太秦の広隆寺へ向かう道として人々が行き交った道のことを指し、現在も僅かながら朱雀二条商店街振興組合と称する商店街も見られ、葛野大路通まではっきり続き、その後南下して広隆寺まで伸びているのだ。さらにこの「太子道」も、現在は一本南側に「新太子道」なるものができ、そちらがメインに使用されている。
ややこしくなるが、「旧二条通」は「旧太子道」でもあるとも言えるのだ。
では実際に旧二条通はかつての平安京の二条通と重なるのかというと、これが全く重なってはいない。実際は本来の二条通の約二町分(約220m分)ほど北側を走っているのである。このことは、写真の平安京の治部省跡(二条通より北側に設置された役所)を示す説明板が旧二条通にあることから明らかである。では、なぜ旧二条通という名前になっているのかが最大の謎であるが、やはりこのあたり全体のイメージとして「旧二条」と呼ぶのがぴったりであったということしか答えが今のところ見いだせない。ちなみに御池通の突き当りにあるJR山陰線の駅が「御池駅」ではなく「二条駅」と呼ばれているのもおそらく同じ理由からではないかと考えられる。「二条通」というのは平安京の東西のメインストリートであったことから、やはり京都の中ではステイタスの高さを保ち続け、それが現在のような通り名や駅名として残っているということではないだろうか。