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編集者・ライターを育てて43年 「大阪編集教室」が卒業生を新代表に迎え再出発

若林朋子北陸発のライター/元新聞記者
大阪編集教室の新代表となった70期生の小猿達哉さん。「花ぎれ」を前に(教室提供)

「ライター・編集者はルポ(ルタージュ)が書けるようになれば一人前」。そんな目標を掲げて1977年に創設されたのが「大阪編集教室(以下、教室)」である。雑誌編集者や新聞記者、コピーライターらを講師に迎え、実際に取材をして文章を書き、批評し合う。43年間で2,000人以上の卒業生を輩出した。マスコミ業界へ進んだ人材も少なくない。

 関西の文学拠点である「大阪文学学校」の創設に携わった故・松岡昭宏さんが教室の初代代表で、以降、講師や卒業生が松岡さんの遺志を引き継いで運営してきた。受講生の減少などで、再三にわたって閉鎖の危機に見舞われながらも存続し、6月には70期生の小猿達哉さん(32)が新代表に着任した。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、受講生からの要望を受けてオンライン授業を導入。時代の流れに対応しながら、魅力ある教室を目指している。小猿さんの受講生時代の思い出を端緒に、教室の今・昔を追った。

再就職のための技能習得を目的に

 小猿さんが在籍したのは2013年4月から1年間。当時は「編集コース」と「ライターコース」があった。半年ごとに「花ぎれ」という受講生の作品を集めた冊子を編集し、雑誌づくりの一連の流れを体得するのが修了のための課題だった。小猿さんは再就職のための技能習得を目的に、25歳で入学した。

「花ぎれ」の一部。左下は作品集、左上は卒業生の文集(筆者撮影)
「花ぎれ」の一部。左下は作品集、左上は卒業生の文集(筆者撮影)

「大学を留年しそうになって20歳で退学しました。接客業、営業職と転じ、『飛込み営業』の大変さに心が折れて退職。実家に引きこもった時期もありました。社会は厳しかったけれど、何となく入った大学より、働きながら学ぶ方が自分には合っていました。しかし、もう一度学びの場に戻ってスキルを身につけてから、一生打ち込める仕事を見つけたいと思ったのです」

「文章なら、今からでも勉強すれば追いつけるかも」と思って入学した。しかし、初回の授業を受けて「中途半端な気持ちではいけない」と感じた。文章を書く習慣や、豊富な読書経験がなかったため、苦労したという。

文章を書く手法を増やす

 授業ごとに講師は変わるし、書くべき文章の形式も変わる。段階を踏んで学ぶというよりは、文章を書く手法を増やしていくカリキュラム編成になっている。コピーライティングの発想、取材記事の書き方など、スキルを積み上げながら、小猿さんは講師の仕事論に耳を傾けた。

 授業後の飲み会には必ず参加し、課題以外の文章を書いて講師や受講生に講評を求めた。また、仲間を集めて勉強会を開き、文章作品展という自主イベントを企画・実施した。「やらされる勉強は向いていない」と思っていた大学時代とは真逆の情熱的な姿勢である。「教室を通じて得たチャンスを生かそうという意識で、1年間を過ごした」と振り返る。

 一方で、原稿を書くにあたっては冷静な視点が大切だと、ほかの受講生に気づかされた。

「あるJリーガーをテーマに書いた文章を、仲間から『熱過ぎて伝わらない』と批判されました。教室で学んだのは、『独りよがりの原稿では読み手に伝わらない』ということ。仕事する時も、受講生に講評を伝える時も、この考え方を忘れないようにしています。文章を書くのに一番大切なことだと思います」

「その人らしく、でも独りよがりにならない文章」が講評のポイント。業務に当たる小猿さん(教室提供)
「その人らしく、でも独りよがりにならない文章」が講評のポイント。業務に当たる小猿さん(教室提供)

 濃密な1年間を過ごし、卒業後は家電メーカーをメインクライアントにしている広告代理店にコピーライターとして就職。4年間勤めた後、別の広告代理店で3年間、ディレクターとして働いた。その間、教室に顔を出しては講評に加わるなど、支援を続けていた。フリーランスとして独立するタイミングで、後継者に名乗りを上げた。

 ちなみに、小猿さんの前に代表を務めた3代目代表・藤田都久子さん(56)によると、受講者数のピークは2000年代で1期あたり70~80人だった。2010年を過ぎて減り始め、17年には20人前後。経営が厳しくなり、閉鎖を考えた時期に講師の河上伸男さんが、自身の事務所とシェアする形で事務局の存続を支援した。受講生のニーズに合わせて短期の「発想ゼミ」「文章ゼミ」「文章のきほん」という3コースに改編、少人数で文章の基礎を学ぶ体制とした。

「谷町4丁目にあった事務局が、2015年10月に卒業生の申し出によって天満橋へ移り、教室は存続できました。『次に閉鎖の危機に見舞われたら自分も役に立ちたい。それまで力を付けておこう』と思っていました。教室のおかげで人生が変わった。自分にとっては、そういう場所。だから残していきたいのです」

教室にとっても、いい転換期

 受講生と講師が顔を突き合わせて講評し、居酒屋に場所を移して熱く語り合う。これまでの授業のあり方は「3密必至」だった。しかし、今はコロナ禍だ。「新代表を引き受けた途端、苦境に立たされたのではないか」と思ったら、そうではなかった。

「以前から収益を生むために『新たな手を打たないと』という思いはありました。今は世界中がコミュニケーションの方法を変える時。だから教室にとっても、いい転換期になりました。新型コロナをきっかけとし、後回しになっていた問題と向き合うことになったのです。だから、このタイミングでオンライン授業をやってみました」

オンラインと対面の双方を活用して行われた安村俊文さんの「文章のきほん」コースの授業風景(教室提供)
オンラインと対面の双方を活用して行われた安村俊文さんの「文章のきほん」コースの授業風景(教室提供)

河上さんが担当する「文章ゼミ」コース。自宅にいた受講生からは「ほかの人の顔が見えたらもっといい」との意見も。教室にいる受講生が端末を持ち込めばそれも可能となる(教室提供)
河上さんが担当する「文章ゼミ」コース。自宅にいた受講生からは「ほかの人の顔が見えたらもっといい」との意見も。教室にいる受講生が端末を持ち込めばそれも可能となる(教室提供)

「文章ゼミ」の受講者の中に医療従事者がおり、6月18日まで外出自粛を強いられた。そこでオンライン会議システムを使い、自宅にいる受講生2人と教室にいる講師・受講生を結んで授業を行った。小猿さんは「不便は感じなかった」と話す。

 オンラインならば、今まで欠席せざるを得なかった授業にも出席できる。コロナ禍でも安全だ。講師・受講生ともメリットは大きい。遠方から参加者を募ることも可能となる。授業の録画データを編集し、受講者や関係者に公開もしている。教室での学びを保存、共有することもできるようになった。一方で、対面ならではの利点も再確認したという。

▲公開された「文章ゼミ」コースの動画

「(オンライン授業に)違和感はないけれど、臨場感には欠ける気がしました。自宅で受講した方に話を聞くと『実際に教室へ足を運んで授業を受けることが、楽しみになりました』と。対面による批評は重視しながら、オンライン授業や対面のスクーリングなど、柔軟に対応することが求められていると思います」

「その人らしさを生かした指導」

 43年の歴史を踏まえ、何を変えていくのか。藤田さんは小猿新代表の手腕に期待する。「その人らしさを生かした指導が持ち味」とも。引き継ぎにあたっては、「(小猿さんについて)教室のことを大切に思い、新しいスタイルを取り入れ、情熱を持って運営していこうとしています。今後ともこれまでと変わらず、ご支援くださいますよう、なにとぞお願い申し上げます」と書いた挨拶状を卒業生らに送った。

2013年3月、藤田さん(左)と大阪編集教室初代代表の故・松岡さん。松岡さんは「大阪文学学校」の初代事務局長でもある。同学校は芥川賞作家・田辺聖子、直木賞作家・朝井まかてを輩出した(藤田さん提供)
2013年3月、藤田さん(左)と大阪編集教室初代代表の故・松岡さん。松岡さんは「大阪文学学校」の初代事務局長でもある。同学校は芥川賞作家・田辺聖子、直木賞作家・朝井まかてを輩出した(藤田さん提供)

 藤田さんは1994年10月から1年間、教室に通った35期生。卒業してからは松岡さんと2代目代表・陰山晶平さんを補佐する事務局長や代表を務め、26年間にわたって教室と縁を結んできた。松岡さんの「目に映るものを淡々と自分の言葉で描写せよ。過剰な表現は要らない」という教えを守り伝えている。

「教室を卒業したものの、編集者にはなりませんでした。独りで仕事と向き合うの、合わないと思ったから。スポーツ関係の仕事をしていたのですが、『教室の運営を手伝ってくれ』と(松岡さんから)言われて事務局員になりました。おかげで、いろんな人と出会えました。幸せです」

創設者の松岡さんは2015年に他界

 藤田さんが師と仰ぐ松岡さん。特集した「花ぎれ」78号によると、1927年に高知県で生まれ、18歳で陸軍二等兵として繰り上げ召集、朝鮮半島で敗戦を迎えた。戦後は大阪府貝塚市にある紡績会社に勤めたが、50年にレッドパージで失職。このころ、周囲では市民が生活記録や詩を書いて文集にまとめるサークルが次々と誕生していた。「一生をかけるもの」として相互批評により文章力を高める活動に情熱を傾け、「大阪詩の教室」「大阪文学学校」の創設に尽力した。

「文学」から「ルポ」に転じて「大阪編集教室」を1977年に創設し、昭和、平成と時代は流れる。2002年4月に75歳で教室の事務局長を退任し、数年は講師を務め、受講生・卒業生との交流を続けた。15年10月12日に88歳で他界している。

1990年代に使われたテキスト(筆者撮影)
1990年代に使われたテキスト(筆者撮影)
2000年代の授業風景。実践重視で、企画・取材・執筆・編集を受講生が担った(教室提供)
2000年代の授業風景。実践重視で、企画・取材・執筆・編集を受講生が担った(教室提供)

 藤田さんは恩師への感謝を込めて教室を存続させる責任を背負ってきたものの、「紙からネットへ」という流れを受けて受講生の数は激減し続けた。新旧の卒業生に声をかけてアイデアを募り、教室の存続・発展へ試行錯誤を続けた10年間を懐かしむ。「後任に託すことができてホッとした」とねぎらいの声に応えた。

「アフターコロナ」で新たな道を模索

 筆者も大阪編集教室の卒業生である。この原稿を書きながら松岡さんの顔を思い浮かべ、「過剰な表現」を削った。さらに藤田さんと小猿さんに講評をお願いした。「無駄に熱く、独りよがりの文章になっていませんか?」と。懐かしさが先に立ち、「あれも、これも」と書きたくなる。ちなみに、小猿さんの取材は、教室と筆者の自宅を結んでのリモートだった。新しい試みに挑戦しつつ、伝統や創設者の思いは忘れない。教室も、受講生も、卒業生も「アフターコロナ」の今、新たな道を模索している。

※授業は土曜日の午後。3カ月単位(計15回)で受講できる。詳細は大阪編集教室のホームページをどうぞ。

http://osakahenshu.co.jp/

北陸発のライター/元新聞記者

1971年富山市生まれ、同市在住。元北國・富山新聞記者。1993年から2000年までスポーツ、2001年以降は教育・研究・医療などを担当した。2012年に退社しフリーランスとなる。雑誌・書籍・Webメディアで執筆。ニュースサイトは医療者向けの「m3.com」、動物愛護の「sippo」、「東洋経済オンライン」、「AERA dot.」など。広報誌「里親だより」(全国里親会発行)の編集にも携わる。富山を拠点に各地へ出かけ、気になるテーマ・人物を取材している。近年、興味を持って取り組んでいるテーマは児童福祉、性教育、医療・介護、動物愛護など。魅力的な人・場所・出来事との出会いを記事にしていきたい。

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