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世界最高峰の自転車カメラマン 単身渡欧で“戦った”32年

若林朋子北陸発のライター/元新聞記者
32年間、海外の自転車ロードレースを取材するカメラマンの砂田弓弦さん(筆者撮影)

 世界で最も有名な自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」は、選手約180人が出場し、チームスタッフは約450人。さらに世界各国から約2000人の報道関係者が集まる(以上、2019年のデータに基づく)。そして観客は数十万人。各国にテレビ中継され、多くのファンが熱狂する。例年、7月に開催されているが、今年は新型コロナウイルスの影響から約2カ月遅れて実施される予定だ。

 ツールに集うカメラマン約300人のうち、コース内をオートバイで移動しながら撮影できるのは12人だけ。その資格を得るために世界中のカメラマンがキャリアを積む。自転車競技がメジャースポーツではない日本から単身で渡欧し、32年かけて確たる地歩を固めているのが砂田弓弦さん(58)=富山市在住=だ。イタリア・ミラノを拠点にレースを転戦し、撮影した写真を各国のメディアに提供、新聞・雑誌の紙面を飾ってきた。7月11日から2日間、同市内で開催される写真展を前に、自転車レースにかける思いを語った。

ヒマワリ咲くツール・ド・フランス、敬愛する米国人選手アンディー・ハンプステンの走行シーン、ツール・ド・フランスの名所トゥルマレ峠にかかる雲海。いずれも展示予定の作品である
ヒマワリ咲くツール・ド・フランス、敬愛する米国人選手アンディー・ハンプステンの走行シーン、ツール・ド・フランスの名所トゥルマレ峠にかかる雲海。いずれも展示予定の作品である

 自転車のロードレースは、欧州ではサッカーの次に人気の高いスポーツです。例えば、ツール・ド・フランスの期間中、フランスのスポーツ紙は連日、8ページもの特集を組んでレースを報じます。そして多くのファンが、レース中はもちろん、シーズンオフも選手の私生活にまで興味を持って情報を求めます。欧州では、自転車競技が人々の生活の一部となっています。

 選手は国境をまたいで長い距離を移動しながら、ゴールを目指します。自転車は個人競技ですが、チームスポーツでもあります。チームが一丸となり選手を支える。「人のために働くこと」が評価される世界です。

 レース中、私はバイクの後部座席に乗ってカメラを構え、シャッターを押し続けます。日本でもマラソンや駅伝などは、テレビの中継車が先頭集団を追うでしょう。しかし、スチール写真を撮るカメラマンがオートバイに乗って移動し、レースの全てを撮影できる競技は、自転車しかないと思います。危険と隣り合わせですが、被写体に近づいて撮影できるので、車に乗って動くよりシャッターチャンスは格段に多い。選手の息遣いを感じることができます。

小さな大会からチャンスを積み重ねる

 カメラマン用にコース内を走行できるオートバイは12台。その枠は通常、レースを主催する新聞社と各国の主要な通信社、大手のフォトエージェンシーが占めています。個人のカメラマンに与えられるのは1枠か2枠。それまでに撮った写真が評価されてはじめて選ばれるため、小さな大会からチャンスを積み重ねてきました。

 競技者として1年間イタリアに滞在した後、一旦帰国。1989年に28歳で再び渡り、ミラノを拠点に活動を始めました。当時「日本人が、何をしにきたんだ」と冷ややかな視線を浴び、取材の妨害にも遭いました。日本では自転車競技がメジャーではありませんから、欧米人が大相撲の取材に来たようなものだったのかもしれません。「分かりもしないくせに」という目で見られていたのです。

 当初、日本のメディアに記事や写真を送るべく取材していましたが、途中からは「知名度を上げ、評価されなければ撮影の機会は増えない」と気づき、海外メディアに写真を提供するようになりました。

 ツール・ド・フランスと並んで有名なレース、「ジロ・デ・イタリア」で「12分の1」の資格を得たのは1992年から。ツール・ド・フランスは17年もかかりました。2006年からオートバイに乗っています。ほとんどの大会で許可が下りるようになったのは5年ほど前からでしょうか。取材を始めて四半世紀以上かかったことになります。

人を雇い、ホテルを手配し、必要経費を稼ぐ

「いい写真を撮ることだけが、カメラマンの仕事」だと思っていませんか。カメラマンの力量が問われるのは、それだけではありません。バイクの運転手や荷物運びのスタッフを雇い、彼らの分も含めてホテルを手配し、宿泊・食事などすべての経費を払う。それだけ稼げるようになってはじめて、「12分の1」のポジションで写真を撮り続けることができます。

 人脈も必要です。選手・監督と顔なじみになり、関係者から情報集め、コミュニケーションを続けないと、いい仕事はできません。振り返ってみると、1枚の写真には目に見えないたくさんの要素が詰まっている。写真展で紹介する作品は、それぞれが試行錯誤の足跡でもあります。

 撮影した写真をどう管理するのかも重要な仕事です。ポジフィルムにインデックスを付けてファイリングし、電子データでも保管し、キーワードで検索できるようにしてあります。選手、大会などの基本情報だけでなく、「花」「橋」など競技以外の要素からも探せるのです。

 電子データ化してもフィルムを捨てるわけにはいきませんから、100年前に建てられた我が家の蔵を移築・改装し、写真保管庫として整備しました。新型コロナウイルスの脅威で身動きが取れない今は、過去に撮った写真を提供することが主な仕事です。シーズン中の依頼には、家族が対応できるように整理してあります。膨大な画像データは財産です。使いこなしてこそ、意味があります。

「ポジフィルムの電子データ化は、やってもやっても終わらない」とのこと。膨大な雑誌・書籍も蔵の中に保管されている
「ポジフィルムの電子データ化は、やってもやっても終わらない」とのこと。膨大な雑誌・書籍も蔵の中に保管されている
写真保管庫は自宅庭にあった蔵を隣地へ移し、改装した。中に入るとひんやりとした空気が漂う。写真を収める棚の横にはワインセラーもあった
写真保管庫は自宅庭にあった蔵を隣地へ移し、改装した。中に入るとひんやりとした空気が漂う。写真を収める棚の横にはワインセラーもあった

 32年のキャリアを積む間、日本の自転車ファンは増えました。サイクリストも。まだメジャースポーツではないけれど、人気の高まりは感じます。テレビ中継でレースを見て好きになった人が情報を求めて雑誌を買い、私の写真に出合うのだと思います。

 レースに帯同し、シャッターを押す。それがメーンの仕事なのですが、ライフワークとしてイタリアの自転車工房で職人の話を聞いて2冊の本を書きました。この取材により自転車競技の歴史を勉強することができました。また、語学もそれほど堪能ではないころだったので、インタビューのトレーニングになりました。イタリアは日本以上に方言の違いがあり、いろんな土地の言葉を聞き取ることができるようになりました。

 32年間、いろんな意味で、戦ってきました。ギャラを振り込まれるまでに何年もかかったり、事故に巻き込まれた時に事実とは異なる主張をされて賠償金を得られなかったり……。不誠実な対応に苦しめられたことは1度や2度ではありません。多様な文化が共存する欧州では自己主張しなければ生きていけませんが、「声がデカイやつの主張がまかり通る理不尽さ」も味わってきました。しかし、そういうやり方に染まりたくはなかった。日本人としての誇りを忘れず、礼節を尽くし、ルールを守って行動してきたつもりです。

海外で「自分が自分であることを忘れない」

 人間としても尊敬しているのが、自転車界のスター、アンディー・ハンプステンです。1988年、米国人として初めてジロ・デ・イタリアで総合優勝しました。彼の言葉が印象に残っています。「ヨーロッパは国によって人も、考え方も、文化も違う。でも僕は、自分が自分であることを忘れないんだ」。彼を撮影した写真をプレゼントしたことがあります。結婚式の出席者に渡したそうです。その写真も今回、展示します。

 本来なら今ごろ、ツール・ド・フランスを取材していたはずです。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大による影響で大会は延期されました。存続が危ういチームもあると聞いています。欧州では自転車レースに必要な商品やサービスを扱うことで経営が成り立っている企業は少なくありませんから、業界が受ける影響は甚大です。

 6月に都内で写真展を開催予定でした。それが中止となり「どこかで展示できないか」とSNSに投稿したところ、恩師や古いスキー仲間から、「あわすのスキー場の多目的センター・ミレットではどうか」という話をいただきました。あわすのスキー場は亡き父がスキー学校の講師を務めていたこともあり、子どものころ練習した場所です。スキー場近くの家具工房「KAKI」でもポスターや写真が掲載された雑誌などを展示します。

砂田さんの写真展の会場となるあわすのスキー場の多目的センター「ミレット」
砂田さんの写真展の会場となるあわすのスキー場の多目的センター「ミレット」
家具工房「KAKI」ではポスターや自転車メーカーのカレンダー、写真が掲載された雑誌・新聞などを展示する
家具工房「KAKI」ではポスターや自転車メーカーのカレンダー、写真が掲載された雑誌・新聞などを展示する

 暖冬が続く昨今、日本のスキー場はどこも苦しい経営を強いられています。冬季以外の集客を目指すとすれば、自転車ロードレースは一つの有効なイベントとなるでしょう。欧州のレースは多くが、スタートとゴール地点を大会名に冠しています。レースの知名度アップは広告効果があるので、コース沿いにある企業や大学、施設などからスポンサー金が集まってくる。こういった大会運営の仕組みを踏まえてイベントを企画すると、地域を巻き込んだ形でレースを成功させられるのではないかと思います。

 国内で成功しているのは北海道の「ニセコHANAZONOヒルクライム」です。2013年、14年と招待を受けました。自転車競技は時速100キロ近く出るので、時に危険なスポーツとなります。転んだら骨折してしまうことも。しかし、山道を登るヒルクライムならばスピードは、ゆっくりになる。転んでも大怪我はしにくい。だから地域の魅力も相まって、人気を集めているのです。

新型コロナと戦う医師からの注文

 そうそう、こんな話があります。「写真を額装してほしい」と注文がありました。要望に応えて送ると、医療現場の最前線で新型コロナウイルスと戦う医師から、激務の合間に写真を見上げ、気を引き締める瞬間があると胸中を明かすメールが来ました。新型コロナの前でスポーツは無力です。しかし、こんな形で役に立つことができて嬉しかったです。

 32年間、追い続けてきた自転車ロードレースの世界の魅力を振り返りながら、写真展の準備を進めています。年間200日を超えるホテル暮らし。寝る時間以外はずっと仕事をして、自分も疾走しながら完全燃焼し続けてきた。そんな充実感があります。このタイミングでの写真展。しかも、自分の原点となるアルペンスキー選手時代の思い出の場所での開催です。この意義は大きいと思っています。

     ◇      ◇

 砂田さんの著書『挑戦するフォトグラファー/30年の取材で見た自転車レース』(未知谷)に、こうある。

「僕はスキーや自転車で果たせなかった夢を、自転車競技の本場で実現したかった。つまりそれは行き着くところ、本場で認められるような仕事をするということだ」

2018年6月発行の『挑戦するフォトグラファー/30年の取材で見た自転車レース』。30年以上にわたる砂田さんの取材活動について詳述されている
2018年6月発行の『挑戦するフォトグラファー/30年の取材で見た自転車レース』。30年以上にわたる砂田さんの取材活動について詳述されている

 アルペンスキーの選手だった高校時代は、富山県大会で上位入賞するかどうかというレベルだった。故障もあって大学でスキーを続けることはなく、大学入学後は自転車競技へ転向。卒業後にイタリアへ渡り、地元のクラブチームに入って続けたものの、競技者としての限界を知った。

 アスリートとして挫折した砂田さんだったが、自転車ロードレースを取材するカメラマンとしては、険しい道を走り続けることを諦めなかった。海外の大手メディアと肩を並べて「12分の1」の座を獲得。「日本人で初めて」「日本人唯一の」という言葉が陳腐に聞こえるほど。フリーランスとして活躍する唯一無二の存在となった。

 しかし、現実は非情である。キャリアの集大成を迎えたタイミングで、新型コロナウイルスによってレースという取材対象そのものが失われた。世界中を飛び回って夢中でシャッターを押し続けた生活は小休止。富山市内の自宅で情勢を見守っていると、少年時代に慣れ親しんだ「あわすのスキー場」が「限界」を迎えていた。

砂田さんが父親からスキーの手ほどきを受けたあわすのスキー場。リフトに乗れない子どもらを運ぶサンキッドが設置された初心者向けのなだらかなゲレンデ
砂田さんが父親からスキーの手ほどきを受けたあわすのスキー場。リフトに乗れない子どもらを運ぶサンキッドが設置された初心者向けのなだらかなゲレンデ

 暖冬と、新型コロナウイルスは、初心者向けの小さなスキー場を直撃した。存続の危機に瀕し、運営していたNPO法人の解散が決まった。砂田さんの母校・雄山高スキー部の後輩が「あわすのスキー場の復活を支援する会」を立ち上げ、SNSでボランティアを募ると、7月5日の草刈りに約200人が集まった。砂田さんもこの日、豪雨に打たれて重くなった雑草を約2時間かけて刈った。写真展の会場となる「ミレット」前では、「スキー場存続」を願う署名が集められ、約170人が氏名を記した。

 苦しい局面にいながら、かつての仲間が「発表の場」を用意してくれた。披露するのは、戦いながら切り拓いてきた「自転車ロードレースのカメラマン・砂田弓弦」が歩んだ道の、マイルストーンとなる作品群だ。励ましているのか、励まされているのか。どちらの思いもある。

インタビューを終えての砂田さん。長い期間、家を空ける生活を続けてきたことから、家族への感謝の思いは尽きない
インタビューを終えての砂田さん。長い期間、家を空ける生活を続けてきたことから、家族への感謝の思いは尽きない

 砂田 弓弦(すなだ・ゆづる)  1961年9月生まれ、富山市出身、同市在住。高校時代からアルペンスキーのトレーニングで自転車に出合い、法政大入学後に競技を始めた。卒業後にイタリアへ渡り、地元クラブに加入。1989年からはミラノを拠点に、世界各地のロードレースをレポート・撮影する。仏・レキップ紙、伊のラ・ガゼッタ・デッロ・スポルト紙ほか、米、英、ベルギー、オーストラリア、台湾、日本など各国の新聞・雑誌や自転車メーカーの広告に写真を提供している。国際自転車競技ジャーナリスト協会日本支部長。自転車競技の専門誌「CICLISSIMO (チクリッシモ)」(八重洲出版)を監修。

※砂田さんのホームページ。

https://www.yuzurusunada.com/

※参考文献

『自転車ロードレース教書/イタリア・ロードレースにまなぶ』(砂田弓弦著、アテネ書房)

『イタリアの自転車工房 栄光のストーリー』(砂田弓弦著、アテネ書房)

『イタリアの自転車工房物語/49の自転車工房と5つの自転車博物館&教会を探訪』(砂田弓弦著、八重洲出版)

『フォト!フォト!フォト!/Cycling photographs in monochrome』(砂田弓弦著、未知谷)

『挑戦するフォトグラファー/30年の取材で見た自転車レース』(砂田弓弦著、未知谷)

※写真/筆者撮影

北陸発のライター/元新聞記者

1971年富山市生まれ、同市在住。元北國・富山新聞記者。1993年から2000年までスポーツ、2001年以降は教育・研究・医療などを担当した。2012年に退社しフリーランスとなる。雑誌・書籍・Webメディアで執筆。ニュースサイトは医療者向けの「m3.com」、動物愛護の「sippo」、「東洋経済オンライン」、「AERA dot.」など。広報誌「里親だより」(全国里親会発行)の編集にも携わる。富山を拠点に各地へ出かけ、気になるテーマ・人物を取材している。近年、興味を持って取り組んでいるテーマは児童福祉、性教育、医療・介護、動物愛護など。魅力的な人・場所・出来事との出会いを記事にしていきたい。

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