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神戸の藤本憲明は単なる「ラッキーボーイ」にあらず 新国立の歴史に名を刻んだ元JFLプレーヤーの履歴

宇都宮徹壱写真家・ノンフィクションライター
試合後のインタビューで「ラッキーボーイでーす!」と叫んだ神戸の藤本憲明。

 果たして、歴史にその名を刻むのは誰か──。

 五輪イヤーとなる2020年の元日、天皇杯決勝は6年ぶりに東京・国立競技場で開催されることとなった。「聖地」のこけら落としという晴れがましい舞台に立ったのは、ヴィッセル神戸と鹿島アントラーズ。スター軍団と常勝軍団による顔合わせは、勝敗の行方とは別に「誰が新国立での最初の得点者となるか」にも注目が集まった。

 結果は2−0で神戸の勝利。同クラブにとっては初のタイトルとなったわけだが、記念すべきゴールを挙げたのはアンドレス・イニエスタでもルーカス・ポドルスキでもなかった。1点目はオウンゴール、そして2点目はFWの藤本憲明。実は当初、1点目も藤本の名がアナウンスされ、その後オウンゴールに訂正されている。それでも彼が、2つのゴールで重要な役割を果たした事実に変わりはない。「藤本憲明」の名は間違いなく、歴史に名を刻まれたと言ってよいだろう。

 もっとも藤本の名前を知っているのは、ごく限られたサッカーファンのみである。アンダー世代も含めて、日本代表の経験は皆無。個人タイトルもJ3得点王を2回獲得したのみである(16年と17年)。今年31歳になる藤本のキャリアは、元スペイン代表やワールドカップ経験者が名を連ねる神戸の中では極めて異色だ。出身は大阪。ガンバ大阪の下部組織から、青森山田高校に進学して07年の高校選手権に出場しているが、当時のポジションは右サイドバックだった。

 その後、近畿大学を経て12年にJFLの佐川印刷SCに入団。所属していた4シーズン、クラブ名は佐川印刷京都SC、さらにSP京都FCと変わるが、働きながらサッカーを続ける社員選手という立場が変わることはなかった。そして16年にJ3の鹿児島ユナイテッドFC、18年にJ2の大分トリニータでプレー。大分のJ1昇格に大きく貢献し、19年8月に神戸に完全移籍している。

19年のJ1開幕戦で鹿島相手に2ゴールを挙げた大分時代の藤本。
19年のJ1開幕戦で鹿島相手に2ゴールを挙げた大分時代の藤本。

 神戸に初タイトルをもたらした直後のフラッシュインタビュー。藤本が「(自分は)ラッキーボーイでーす!」と叫ぶと、鹿島のゴール裏からブーイングが沸き起こった。そういえば試合前の選手紹介でも、藤本はイニエスタやポドルスキと並んで激しいブーイングを受けている。JFLから這い上がった雑草魂の選手が、ワールドクラスのプレーヤーと同じくらいの「評価」を受けているのは、非常に興味深いことである。

 鹿島のサポーターが藤本の名前に敏感に反応するのには、もちろん理由があってのことだ。19年のJ1開幕戦、ホームに大分を迎えた鹿島は、6年ぶりにJ1に昇格した相手に1−2で敗れている。実に13年ぶりの屈辱。この試合で2ゴールを挙げたのが藤本だった。その後、神戸に移籍して初ゴールを記録したのも、第33節のアウェイでの鹿島戦。そして、天皇杯決勝でのゴールである。これほど鹿島相手に結果を出すストライカーが、ほんの5年前までアマチュアでプレーしていたという事実もまた興味深い。

 実は藤本にはもうひとつ、誰にも真似できない記録がある。それは、JFL、J3、J2、J1の開幕戦でゴールを決めていることだ。すなわち、14年のFCマルヤス岡崎戦(ホーム)、17年の藤枝MYFC戦(ホーム)、18年の栃木SC戦(アウェイ)、そして19年の鹿島戦(アウェイ)。この快挙を「ラッキーボーイ」で片付けてよいものだろうか。大分の番記者、ひぐらしひなつ氏によれば、実は藤本は「隠れた努力家」だという。

「大分に移籍してばかりの頃、結果を出せずに悩んだ時期がありました。それがある時『俺、自分のサッカーでメシ食ってきたやん』って、吹っ切れたそうです。自分のスタイルを理解してもらえるよう、地道にトレーニングを続けることで結果を出せるようになりました。彼の場合、自分の努力を人前で見せないタイプなんです。それでもオフの時でも、走り込みを続けているという証言もあります。でないと、あの下半身の強さはありえないですよね(笑)」

SP佐川の廃部後、16年にJ3の鹿児島に移籍(後列左から4番目)。
SP佐川の廃部後、16年にJ3の鹿児島に移籍(後列左から4番目)。

 JFLからJ1へ、そして新国立の最初の得点者へ。この間、わずか5シーズン。驚くべきキャリアアップである。一番のターニングポイントは、どこにあったのだろうか。試合後のミックスゾーンで当人に直撃すると「全部ですね」と答えて、こう続ける。「ステップアップしてきたことすべてが、自分にとって大事だったので(ターニングポイントが)これというのはないです。日々レベルアップに努力した結果が、今につながっていると思います。これからも、それを続けるだけですね」

 確かに、弛まぬ努力があったのは間違いないだろう。だが藤本には努力だけではなく、選手人生の重要な岐路において、運を掴む力も持っているように感じられる。その端的な例が、JFLのSP京都からJ3の鹿児島に移籍する、15年から16年にかけて。実はSP京都は15年いっぱいでの廃部を発表。その年の10月25日に奄美で対戦したのが、のちに移籍することとなる鹿児島であった。クラブ代表の徳重剛氏は、当時の藤本の印象をこう回想する。

「JFL時代に対戦して感心したのが、まずスピード。それと身体の使い方も上手でした。タイミングも良かったと思います。ちょうどSP京都が廃部した次の年に、ウチもJ3に昇格できましたので。それと奄美で対戦した時、(廃部の発表を受けて)ウチのサポーターがSP京都に激励のエールを送ったんですね。それが藤本の心にも響いたみたいです」

 翌16年、JFLからJ3に昇格した鹿児島は、藤本を含む元SP京都の3選手を迎え入れる。そして16年と17年、藤本は2年連続でJ3得点王に輝いた。もしも奄美での「出会い」がなければ、藤本のキャリアは15年いっぱいで途切れていたかもしれず、その後のサクセスストーリーもなかったかもしれない。この日、スタンドで観戦していた徳重氏は「3年前まで(鹿児島のホームの)鴨池でプレーしていた選手が、新国立のピッチに立っているなんて、夢のある話ですよね(笑)」と目を細める。

 それまで身近な場所にいた選手が、令和初の天皇杯ファイナルでの歴史的なゴールを記録する。それは当人やクラブ関係者のみならず、J1以下の幅広いカテゴリーのサッカーファンにも至福を与える瞬間であった。藤本憲明が単なる「ラッキーボーイ」ではないことは、こうした事実からもご理解いただけよう。2020年はACL(アジアチャンピオンズリーグ)でのゴールを期待したいところだ。

<この稿、了。写真はすべて筆者撮影>

写真家・ノンフィクションライター

東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。『フットボールの犬』(同)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)で2016サッカー本大賞を受賞。2016年より宇都宮徹壱ウェブマガジン(WM)を配信中。このほど新著『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)を上梓。お仕事の依頼はこちら。http://www.targma.jp/tetsumaga/work/

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